文化とは原因と結果をつなぐ道理です。
種を蒔いても発芽しないのは、道理に叶わぬことをしているからです。
因と果の法則を活かすのは道理です。善いタネがあっても、正しい行いがなければ、善い結果にはならないのです。モノと文化の関係もおなじではないでしょうか?
正しい道理の心得はどうすれば身につくのでしょう。
あなたがつらい時を応援する<お粥さん『食禅』プロジェクト>の⑥です。困ったらいつでもご相談くださいね。無料でどんなことにもお答えします。
日常を文化にする
なぜなら、私たちはそれが便利だとか美しいとすでに知っているからです。あるいは対価に見合うメリットを享受するべきだと強迫観念に追い立てられるからです。
そもそも「社会」が型にハマってしまっているからです。
もし自分の環境にハマるなら逆転させて自分の文化を高めることもできるはずです。
かなり難易度が高いですがそうだとしたら新しいスマホのメリットを享受するには、環境をすべて更新するのがベストです。
減らすことからはじめる
こうしている間に、自分の人生を忘れてしまうでしょう。
私が声を大にして言いたいのは「型にハマった社会」に従属するなということです。
般若と識
般若心経の「般若」も唯識論の「識」も、「こころ」を意味します。
・人の感覚や精神(受想行識)もなく、
・感覚器官(【六根】眼耳鼻舌身意)もなく、
・その対象(【六境】色声香味触法)もなく、
・その対象のある世界もなく、
・人の迷いの根源(無明)もなく、
・人の迷いの根源がなくなることもなく、
・老いや死もなく、
・老いや死がなくなることもなく、
・それを脱する真理(【四諦】苦集滅道)もなく、
・知るところもなく、
・得るところもない。般若心経では、眼・耳・鼻・舌・身の六種の器官を六根と言いますが、法相宗(奈良興福寺)では唯識の教えで六識と呼びます。
六根→→→六境→→→六識(唯識論)
眼→→→→色→→→→眼識(視覚)
耳→→→→声→→→→耳識(聴覚)
鼻→→→→香→→→→鼻識(嗅覚)
舌→→→→味→→→→舌識(味覚)
身→→→→触→→→→身識(触覚)
意→→→→法→→→→意識(意識)
元はお釈迦様の説いたことなので根本的に同じことを説いていますが、宗派の違いでその先の話は使っているお経で微妙に違いますが、簡単にまとめると意識を除く5つを般若心経では「五蘊(ごうん)」といい、法相宗の唯識では「前五識」と呼びます。識というのは蔵のことで、心のことです。
唯識では前五識と意識を合わせて六識といい、これらは顕在意識に位置します。
さらに潜在意識に末那識(まなしき)と阿頼耶識(あらやしき)があります。末那識は自己執着心で、阿頼耶識は『機動戦士ガンダム』にも出てくる一切を生み出す可能力を有した根本の心です。
識は蔵なり。
蔵は土で出来ているので火事になっても中のものは燃えずに守れます。火が消えたら取り出してまた使えます。
それと同じように、私たちの肉体は、生まれたときにできて、死ねば滅びます。
ところが、阿頼耶識は、肉体が生まれるずっと前から、肉体が滅びても、滅びることなく続いてきたものであり、行くものです。
果てしない遠い過去から、永遠の未来に向かって流れて行く、体は朽ちても、私たちの永遠のいのちが阿頼耶識なのです。つまり「業(ごう)」です。
つまり阿頼耶識は海に向かって流れている川だとしたら、肉体はできては消える泡のように儚いものなのです。ところが実感では、肉体が川で意識が泡のように感じませんか?
それは蔵(体)が主で蔵の中にあるもの(識)が従だと思い込んでいるからです。
意識は寝ている時や、気を失った時には途切れます。
意識が途切れたら何も考えていない無心の状態のはずなのに、なぜ迷いが続くのかというと、潜在意識にある末那識は、いつも阿頼耶識にまとわりついて執着するからです。末那識という途切れない心が、意識が途切れている時も、末那識が悪を顕在意識に送り続けているからです。その影響で本当は無我、空なのに、末那識はいつも阿頼耶識を固定不変の我だと思って働き続けてしまうのです。これによって無我、空を感じることを難しくしています。
無我、空を感じにくいと何が問題なのでしょう?六根の対象は実体として存在しないのだから、たとえば失恋しても自分の認識の中で悲しんでいるに過ぎない。見ている現象は脳が生み出した映像だから気にするなということになります。
しかし、ここで完結するなら悲しみを癒す方便でしかありません。人を殺しても実体はないということになります。そこで、無我、空を生み出す智慧が重要になります。智慧は知恵とはレベルが違いますが、般若(智慧)も識(智慧)も智慧です。ふたつはどう違うのでしょう。
般若と識の違い
「識」は 「区別して知る作用」と言われ、大と小とを区別して知るように、対象を概念化して知る善悪を区別して知る作用です。これにたいして、般若は事実の世界の存在 を、直感的に洞察する智慧 であり、体験によ って得られるものです。 そし て般若と識と は、同じ心中 にあって、別々に活動 し ていると言 われています。両者 は共に知的活動であり、よく似ていますが、 しかし活動も異なり、知の性格も同じ はありません。
因果と道理
因果とは、原因と結果のことですが、忘れてならないのが「道理」です。
因果応報というように、
善因善果
悪因悪果
自因自果
という運命をつむぎ出す大宇宙の因果の法則があります。
玉ねぎ(因)のタネをまけば玉ねぎ(果)ができます。アボガドにはなりません。
玉ねぎが育つように場所を選んでタネを撒き、育つように面倒をみます。これが道理です。
つまり因と果の法則を活かすのは道理です。善いタネがあっても、正しい行いがなければ、善い結果にはならないのです。モノと文化の関係もおなじではないでしょうか?
モノではなく文化を育てよう
モノは単なる自分の外側にあるものです。一方、文化は自分の内側にあり、気づくだけではあるだけで終わります。ルーティンにして育てなければ文化になりません。
なんでもないようなことを文化するルーティンは、対象を減らした賜物なのです、
ゲンキポリタン大学
「社会人基礎力」(全6回)
- 人生100年時代社会人基礎力3つの能力
- 社会人基礎力①12のの能力要素
- 社会人基礎力②前に出る力を育てる主体性と8つの基準
- 社会人基礎力③考え抜く力を育てる思考法
- 社会人基礎力④チームで働く力
- 社会人基礎力に追加された3つの視点
コラム
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