文化とは因果をつなぐ道理です

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イーロン
イーロン

文化とは原因と結果をつなぐ道理です。
種を蒔いても発芽しないのは、道理に叶わぬことをしているからです。

因と果の法則を活かすのは道理です。善いタネがあっても、正しい行いがなければ、善い結果にはならないのです。モノと文化の関係もおなじではないでしょうか?
正しい道理の心得はどうすれば身につくのでしょう。

Naoman
Naoman

あなたがつらい時を応援する<お粥さん『食禅』プロジェクト>の⑥です。困ったらいつでもご相談くださいね。無料でどんなことにもお答えします。

日常を文化にする

文化
なんでもいいから、
自分の文化を大切にしましょう。
いま暮らしている日々で、モノを購入し所有することは極めて当たり前でノーマル、日常的ななことだとしても、モノが生活を支配すると私たちの目は自分の外側に向けられ、いとも簡単に本来の自分を見失います。
たとえばスマホを買い換えただけで波立ち自分の人生が台無しにされます。
なぜなら、私たちはそれが便利だとか美しいとすでに知っているからです。あるいは対価に見合うメリットを享受するべきだと強迫観念に追い立てられるからです。
自分が気に入ったからというより、社会がお膳立てした選択肢から半ば強要される形で選んでいるからです。

そもそも「社会」が型にハマってしまっているからです。

お遍路
言い換えると、そこに自分の文化がないということです。
もし自分の環境にハマるなら逆転させて自分の文化を高めることもできるはずです。
かなり難易度が高いですがそうだとしたら新しいスマホのメリットを享受するには、環境をすべて更新するのがベストです。

減らすことからはじめる

マンダラ〜ウェルビーイングの旅

さらに出費が増え時間を奪われることになりそう。
こうしている間に、自分の人生を忘れてしまうでしょう。
私が声を大にして言いたいのは「型にハマった社会」に従属するなということです。
自分の人生を台無しにされたと感じることはないでしょう。
お金を出して台無しにされたとリズムを取り戻すのには台無しにされた時間とおなじくらい時間が必要です。
禅が毎朝、いちばんに余計なものを排除し掃き清めピカピカに磨きあげることに執着するのは、不要な執着を払いのけるのと同じです。
禅は生活環境が人生に与える大きさを知っているからです。
皮肉にもスティーブ・ジョブズ氏が大きな家に住みながら日本画とベッドしかなかったという話と通じます。彼はモノを持たなかったからやりたいことをやり通せたのです。
住空間を清めて不要なモノを処分するのが一刻も早ければ早いほど気持ちが安定して新しいモノを取り込んで未知の世界と自分の文化に突入できます。
掃除を芸術の領域に高めた<禅の掃除>は心の掃除をする儀式なのです。

般若と識

般若心経の「般若」も唯識論の「識」も、「こころ」を意味します。

・物質(色)もなく、
・人の感覚や精神(受想行識)もなく、
・感覚器官(【六根】眼耳鼻舌身意)もなく、
・その対象(【六境】色声香味触法)もなく、
・その対象のある世界もなく、
・人の迷いの根源(無明)もなく、
・人の迷いの根源がなくなることもなく、
・老いや死もなく、
・老いや死がなくなることもなく、
・それを脱する真理(【四諦】苦集滅道)もなく、
・知るところもなく、
・得るところもない。般若心経では、眼・耳・鼻・舌・身の六種の器官を六根と言いますが、法相宗(奈良興福寺)では唯識の教えで六識と呼びます。

六根→→→六境→→→六識(唯識論)

眼→→→→色→→→→眼識(視覚)
耳→→→→声→→→→耳識(聴覚)
鼻→→→→香→→→→鼻識(嗅覚)
舌→→→→味→→→→舌識(味覚)
身→→→→触→→→→身識(触覚)
意→→→→法→→→→意識(意識)

元はお釈迦様の説いたことなので根本的に同じことを説いていますが、宗派の違いでその先の話は使っているお経で微妙に違いますが、簡単にまとめると意識を除く5つを般若心経では「五蘊(ごうん)」といい、法相宗の唯識では「前五識」と呼びます。識というのは蔵のことで、心のことです。

般若のゴエス

唯識では前五識と意識を合わせて六識といい、これらは顕在意識に位置します。
さらに潜在意識に末那識(まなしき)と阿頼耶識(あらやしき)があります。末那識は自己執着心で、阿頼耶識は『機動戦士ガンダム』にも出てくる
一切を生み出す可能力を有した根本の心です。

識は蔵なり。

蔵は土で出来ているので火事になっても中のものは燃えずに守れます。火が消えたら取り出してまた使えます。

それと同じように、私たちの肉体は、生まれたときにできて、死ねば滅びます。
ところが、阿頼耶識は、肉体が生まれるずっと前から、肉体が滅びても、滅びることなく続いてきたものであり、行くものです。

果てしない遠い過去から、永遠の未来に向かって流れて行く、体は朽ちても私たちの永遠のいのちが阿頼耶識なのです。つまり「業(ごう)」です。

つまり阿頼耶識海に向かって流れている川だとしたら、肉体はできては消える泡のように儚いものなのです。ところが実感では、肉体が川で意識が泡のように感じませんか?
それは蔵(体)が主で蔵の中にあるもの(識)が従だと思い込んでいるからです。

意識は寝ている時や、気を失った時には途切れます。
意識が途切れたら何も考えていない無心の状態のはずなのに、なぜ迷いが続くのかというと、潜在意識にある末那識は、いつも阿頼耶識にまとわりついて執着するからです。末那識という途切れない心が、意識が途切れている時も、末那識がを顕在意識に送り続けているからです。その影響で本当は無我なのに、末那識はいつも阿頼耶識を固定不変の我だと思って働き続けてしまうのです。これによって無我空を感じることを難しくしています。

無我、空を感じにくいと何が問題なのでしょう?六根の対象は実体として存在しないのだから、たとえば失恋しても自分の認識の中で悲しんでいるに過ぎない。見ている現象は脳が生み出した映像だから気にするなということになります。

しかし、ここで完結するなら悲しみを癒す方便でしかありません。人を殺しても実体はないということになります。そこで、無我、空を生み出す智慧が重要になります。智慧は知恵とはレベルが違いますが、般若(智慧)も識(智慧)も智慧です。ふたつはどう違うのでしょう。

般若と識の違い

「識」は 「区別して知る作用」と言われ、大と小とを区別して知るように、対象を概念化して知る善悪を区別して知る作用です。これにたいして、般若は事実の世界の存在 を、直感的に洞察する智慧 であり、体験によ って得られるものです。 そし て般若と識と は、同じ心中 にあって、別々に活動 し ていると言 われています。両者 は共に知的活動であり、よく似ていますが、 しかし活動も異なり、知の性格も同じ はありません。

因果と道理

因果とは、原因と結果のことですが、忘れてならないのが「道理」です。

因果応報というように、

善因善果
悪因悪果
自因自果

という運命をつむぎ出す大宇宙の因果の法則があります。
玉ねぎ()のタネをまけば玉ねぎ()ができます。アボガドにはなりません。
玉ねぎが育つように場所を選んでタネを撒き、育つように面倒をみます。これが道理です。

つまり因と果の法則を活かすのは道理です。善いタネがあっても、正しい行いがなければ、善い結果にはならないのです。モノと文化の関係もおなじではないでしょうか?

モノではなく文化を育てよう

モノは単なる自分の外側にあるものです。一方、文化は自分の内側にあり、気づくだけではあるだけで終わります。ルーティンにして育てなければ文化になりません。
なんでもないようなことを文化するルーティンは、対象を減らした賜物なのです、

 

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