こんにちは。人生100年時代の心と身体とお部屋をゴエスする「マインドフルネス実践講座」コーチ、特別な一日日本代表ゲンキポリタンあなたの願いを実らせるNaomanです。
自分の気持ちや考えを、まっすぐに表現するやり方を、アサーティブな態度と言います。
アサーション(assertion)とは、相手と対等な立場に立って自己主張をするためのコミュニケーションスキルのことです。
私たちはアサーティブ(assertive)になることがなぜ難しいのでしょうか。
5つのメガ理由があるのでご説明します。
- 気持ちが把握できていない
- 結果や周囲を気にしすぎる
- 基本的人権を使つてない
- 考え方がアサーティブでない
- アサーションのスキルを習得してない
さらにアサーティブになれないのには禁止令から発信された認知の歪みがあります。
認知の歪みは子育てと深く関与していて、人間関係のあり方に障害を引き起こします。
するとどうなるでしょう?
人生そのものが無意識レベルでとんでもない方向に誘導してしまいます。
「コミュニケーションが苦手で・・・」などと言っていられない事態が起こっているのです。
エンドレスにワンダフルな100年ライフを願うゲンキポリタンにふさわしくないあり方に陥らないようにご説明します。
なれない理由①気持ちが把握できてない
自分の言いたいことが自分ではっきりつかめていないときにはアサーティブになりたくても、なれないものです。
自分の気持ち、言いたいことが、自分でも不明確なわけですから、表現できなくても仕方がありません。
自分の気持ちを明確に把握できない場合、まず感覚・感情と思考を区別する必要があります。
この切り分けをするか、全体とひとつとして把握するのが。アサーションの第一歩です。
自分の気持ちを最もはっきり分かっていて、それを訴えることができているのは、生まれたばかりの赤ん坊です。
赤ん坊は、言葉を知りませんので、泣くことしかできませ
んが、お腹が空いたとき、おしめが濡れて気持ちが悪いとき、抱いてほしいとき、気分が悪いときなど、感情と思考を分別していないのですぐに表現できます。
しかし、率直な人聞の赤ん坊のニーズを汲み取って理解するのは親の役割です。つまり親に丸投げしているのです。
似たことをしているのが、天邪鬼な不器用女子です。
天邪鬼な不器用女子同様、赤ん坊の苦労は丸投げを聞き入れてくれない親の態度や親の言動に接して、率直で素直な自己表現をしなくなります。
特に、感情を軽視し、感情表現を嫌う親に育てられた子どもは、自分の気持ちを抑えることが日常になるので、自分の内面に鈍感になります。そして、親に受け入れられる言動だけを選んで身につけていくようになります。
阿頼耶識から見るアサーションを阻害する三つの心
人間には三つの心」があります。
「親の心」、「大人の心」、「子どもの心」。
さらに「子どもの心」には「自由で無邪気な子どもの心」と「従順な子どもの心」があります。
「従順な子どもの心」が強いと従属的な大人になります。
一方「自由で無邪気な子どもの心」強いと主体的で自律的な大人になります。強く成長する会社には「自由で無邪気な子どもの心」を持った主体的で自律的な大人が多く集まっています。
親とのつき合いは長く、濃厚なのが一般的なので、親に認められた一定の気持ちや考えを表現することだけが強化されます。
保護的で柔軟な心の持ち主で、幅広い行動範囲をもった親の下で育たない限り、自由闊達な子どもの心は育ちません。
逆に、表現しない気持ち、考えは強化されないので、薄れていき、忘れ去られていきます。
どちらにして、これらが潜在意識で、ひとつになりアサーションを阻害します。
単に阻害するだけでなく『唯識』でいう「阿頼耶識(あらやしき)」となって潜在意識を創り煩悩の素地になるのです。
『唯識』とは、西遊記でおなじみの三蔵法師がインド地方に行って持ち帰ったお釈迦様の教えです。
特徴は「無分別智」にあります。
言葉で考えますが、言葉を使うことで、”私とあなた”というように二分化してしまうことです。
つまり認知の歪みが起こっているのです。
しかし、先にお話したように赤ちゃんは言葉を知らないので、泣くことで表現します。
時には自分でも説明できない言動をすることがあります。
感情と思考がうまくまとまらない場合、表現できないと苦しくなって、自分の中で否認して、心の奥底にある気持ち抑圧して、それはないことにしてしまうことがあります。
自分の気持ちがはっきりせず、また、把握できなった結果、突拍子もない行動に走ることもあります。行動化という現象です。
なれない理由②結果や周囲を気にしすぎる
次に、自分の言いたいことが伝わるかどうかばかりを気にして、結果に気を気持ちが奪われてプロセスが飛ばされることもあります。
失敗を怖れているとき、アサーティブにはなれないものです。自己表現で重要なことは、言いたいことが伝わるかどうかではなくて、自分の気持ちが適切に言えるか否かです。
なぜなら、「伝わる」ということには自分の伝える行為と相手の受け取る行為の両方がかかわっています。
相手の受け取る行為は相手のものであり、受け取るかどうかは相手が自由に決めることができます。
私たちは相手の自由を支配することはできませんから、伝わるかどうかは分からないし、それを怖れても仕方がなく、意味がないのです。
つまり、失敗することを怖れていてはコミュニケーションは成り立たないのです。
したがって、精一杯、自分のできる限りで、自分の気持ちを表現することにまずエネルギーを注ぐことが先決です。
そして、伝わらなかったら、またコミュニケーションを続けるしかないのです。
また、他人や周囲の状況の方を気にして、自分の感情や考えをいい加減に扱っていると、自分の言いたいことが言えなくなります。
追った意見を言うともめごとが起こるのではないか、好かれるようにするには相手の意向に沿う、思いやりのあるいい人になりすま方がよい、などと考えていると、ノンアサーティブになります。(=自己主張しない)
ノンアサーティブの場合、一見、相手を立ててこの態度はいるようですが、本当はそうではありません。
なぜならことを丸く収めるために自分のことを二の次にして、相手に嘘を言ったわけですから、それは相手を立てようとするその場凌ぎの対策でしかなく、自分の主体的な意思から出たものではありません。
この行為は、相手を尊重しようとする自分の主体的な決断による行為ではなく、相手の意向や気持ちに依存した、受身的、非主体的な行為です。
真意の判断を相手に委ねている”天邪鬼”の真意とよく似ています。
特にこの場合、自分の気持ちをはっきり伝えないまま、相手に従っているわけですから、相手に誤解されたり、無視されたりしやすく、結果的に相手の言いなりになったり、思いのままに動かされることになってしまいます。
これが積もると怒りになりますが、相手には理解できなくて当然です。逆恨みでしかありません。
自分から招いた関係でありながら、相手に操作されているような気持ちになり自分でも混乱してきます。
阿頼耶識から見た三つの心
倒産する会社には、従順な子どもの心の持ち主、天邪鬼な反抗者がたくさん集まる傾向があります。従順な子どもの心と天邪鬼な反抗者は一見正反対に見えますが、同根異才で天邪鬼も根元から主張的な言動をしているわけではありません。
非主張的な言動をしていると、自分のことを分かってもらえない欲求不満がたまりますが、彼らは欲求を持たないようにすることで会社内で生き延びようとします。
つまり生活の糧として会社があればいいので、やりがいや生きがいは他の場に求めます。
会社へのロイヤリティは非常に薄く、波風を立てないことが優先順位の上位にあります。
言われたことはやる努力をしますが、ロイヤリティが低いので創意工夫が発揮されることはほとんどありません。
従順な子どもの心の持ち主は、抑圧に慣れていますが欲求がないわけではないので、たまった欲求不満は、相手への恨みになり、こんなに譲っているのに、相手は鈍感だとか、思いやりがないとか、自分が自己表現していないことを棚に上げて相手を非難する気持ちがつのります。
いわゆる我癡・我慢・我見・ 我愛の4大執着心の塊になってしまいます。
- 我癡・・・・我(が)に囚われている、末那識(まなしき)という我執(がしつ)の心。自分を知ろうとしない(無明)。
- 我慢・・・・強い自己意識から生じる慢心のこと。 うぬぼれ。自分が、自分が、自分がの意識、常に比較し自分が優れていると主張する、
- 我見・・・・我執ともいい、偏見に満ちた物の見方、意見。
- 我愛・・・・貪ること。もっと愛してくれ、五欲の対象である万の物を必要以上に求める心。
我癡・我慢・我見・ 我愛の4大執着心の塊になっても、言動に出さないのが、従順な子どもの心の持ち主の特徴です。
彼らは幼少期からサバイバルするための術として身につけてきたのです。
彼らの親と経営者には似通っている場合が多く見受けられます。愛情がないわけではではありませんが、言うことを聞けば褒美が貰えるという関係性から「滅私奉公」「搾取」という言葉が似合います。
この関係のバランスが崩れると、こんなに我慢したのだから、そのことを知らしめてやろうといわんばかりに、突然、相手の裏をかくようなことをするのです。そうなると、自分のことや言いたいことが先だって、相手や周囲の状況が見えなくなります。欲求不満がたまったことによるストレスと、相手への怒りは、自分を正当化することに集中し、爆発することになりかねません。
その典型的な事例が、20代と50代の離婚を言い出す主婦です。
恋愛結婚をして夫のためにといろいろ尽くしていた貞淑な20代の妻が、ほんのちょっとした夫の無頓着さに腹を立てて、大げさに実家に訴えに行き、親がかりで離婚にしてしまうとか、言いたいこと、やりたいことを我慢して夫や子ども一筋に生きてきた50代の妻が、子どもが自立した途端に、もう我慢できないと離婚を言い出すといった例は数多くあります。
また、おとなしく、従順な働き者のサラリーマンが、忍耐の限度が来て、ある日突然、退職届けを出すといった光景はよく見られるケースです。
これらの例は、非主張的だった人が、欲求不満がたまったあまり、我慢できなくなって、仕返しをしていると解釈することができます。
なにより悲劇的なことは、離婚を言い出す主婦も、退職届けを突然提出する会社員も、それほど我慢していた、欲求不満がたまっていたとは理解されないことです。
それも無理からぬことで、それまで、その都度自分の意見や気持ちを表現してこなかったわけですから、相手にはいつ、何を譲ってくれたのか、どんなことで我慢してくれたのかさっぱり分からないのです。
非主張的な人の気持ちの裏にある攻撃性は、また、八つ当たりとしても発揮されます。
先ほど述べた、外で従順な夫が、家に帰ると、子どもがおもちゃを散らかしていると言って怒鳴り、夕食の準備が遅れたと文句を言ったりします。
また、電車やパスの中で、前に座っている人の組んだ足がズボンに触ったと言って、足を下ろしてくれるように静かに言えばいいところを、罵倒したり、蹴ったりします。悪気もなく、不用意に足を組んでいたかもしれないその人のことはまったく考慮に入っておらず、その人はいつもそうしていると思い込んで、思い知らせてやろうと怒っているのですが、実は、過去に何度も腹立たしく思った他の人への思いをそこで晴らしているにすぎないのです。
一生懸命に結果や周囲を気にして動いているはずの人が、気にしすぎの果てに、「過ぎたるは及ばざるが如し」の諺の通り、限界に達して暴発する事例は高齢者に多く見受けられます。
この人たちは過去の論功に関心を持たれることも、敬われることなく、ただ高齢者のひとりとして扱われるだけの存在になります。長い間の我慢は何だったのかと怒りがこみあげてくるのです。
結局、周囲に配慮が届かず、理解されず、誰彼区別なく当たり散らすはた迷惑な人になってしまうのです。
原因は「アサーティブでない生き方をした」ことにあります。
なれない理由③基本的人権を使っていない
アサーションは基本的人権のひとつです。
言論の自由は生まれながらにして誰に対しても保障された人権です。
アサーションは、相互尊重のフェアプレイの精神にもとづいた自己表現ですからいわば基本的人権を守るための考え方と方法です。
しかし、多くの人は、「誰もが等しくアサーティブになってよい」というアサーション権があることを知らないか、忘れて生活をしているようです。
たとえば次のような状況に陥ったとき、私たちは混乱して、アサーティブになることに不安を覚え、アサーションの機会を見失いやすいのではないでしょうか。
こんな事例があります。
友人が、夜かなり遅くなってから電話をかけてきました。
彼は会社で大失敗をして、上司に叱られ、自分が悪かったことは分かっているものの、やり切れぬ気持ちになり、愚痴を聞いてもらおうとかけてきたのでした。
あなたは、昨日、徹夜で残業をし、今日も厳しい一日を過ごして、かなり疲れていて、早目に寝ょうと思っていたところでした。
ところが、友人はそんなこととも知らず、自分の窮状を話し出して、調子に乗って来ました。
「友だちなんだから、そう冷たくもできないし・・・」とか、
「自分より彼の方が大変なんだから・・・」とか、
「自分が大変な時には助けてもらうことだってあるだろうし・・・」などと
自分に言い聞かせながら、聞いています。
一方では、「早く話が終わらないしかし、かな・・・」とか、
「よりにもよって今晩なんかに・・・」とか、
「自分だって大変なのに・・・」
とも思いながら、話を聞くことは半分上の空になっているのです。
こんなとき、多くの人は、「断れば罪悪感になる、
だからといって引き受けると自己嫌悪に陥る」といった相反するジレンマを体験します。
白黒発想に悩むことになります。
こんなとき、白でも黒でもない、グレーの選択をするのが最適です。
もし、あなたが電話を断ったら、友だちは傷つき、軽くあしらわれたと思うでしょうか。
今後、友情を失うでしょうか。彼はあなたを利己的だと思うでしょうか。
あなたは優しくない人なのでしょうか。
断らなかったとしたら、どうしていつもこんなことをするはめになるのでしょうか。
あなたはお人好しなのでしょうか。
人と共に生きるということにはこれくらいの犠牲はっきものなのでしょうか。
このような内的葛藤は、自分がやりたいことと人の希望とが一致しないときや、自分の希望と常識が合わないときに起こります。
自分を通せば相手に間違っていると思われるかもしれないし、相手は傷つくかもしれません。
そして自分がやりたいことを通す十分な理由がないような気もします。
相手を優先すれば自分が我慢することになります。
グレー発想、つまり中間、WIN-WINをとるとどうなるでしょう。
この場合、コミュニケーションはそれぞれの解釈で成り立つものですから、自分が中間、WIN-WINだと思っても相手は自分を優先しやがってと思う場合もあります。
このようなどちらかを立てようと無理な状況でこそ、適切な判断と成熟したアサーションが必要になります。
そのアサーションの原点は、アサーション権です。
葛藤が起こったとき、どうするかに迷ったとき、「自分がやりたいことを言うことは人権として許される」というところに立ち戻ることができれば、そして相手もそのアサーション権をもっていることを受け入れるならば、次の段階に進むことができるのです。
つまり、相手の言い分を受け止める気持ちがあるなら、とりあえず、「今夜は疲れていて、もう寝たいと思っていること、頭がボーっとしていて話を自分ごとのように聞けないこと、できれば明日の晩、電話をしてほしいこと」を伝えてみてもいいのです。
もちろん、それを聞いた相手はあなたの申し出に対して、同意する権利もあるし、さらに別の提案をする権利もあります。したがって、相手の意見によって、またあなたの次の考えを言えばいいのです。
コミュニケーション、話し合いは、お互いの安心・安全を確かめながら「一歩ずつ前に進む」が鉄則なのです。
これが話し合いであり人間関係なのです。
阿頼耶識縁起
- 表層心(顕在意識)
- 深層心(潜在意識)
両方をつなぐのが「縁(因果=原因と結果)」
阿頼耶識は別名「一切種子識」とも言われ、「一切種子識」の一切は二種類の種子を指しています。二種類の種子には、
「倶生起の種子(先天的)」・・・悟る可能性のある力と
「分別起の種子(後天的)」・・・良い可能性、あるいは悪い可能性があります。悟る可能性を育み、良い可能性を育むのが、教育です。
教育とは育むことを教えることで、一日のすべての行いが育みの場です。
つまり一日のすべてで自分を育むことができることを教えている、くれるのが教育の本質です。
それを生かすも殺すも自分次第のあり方、やり方つまりあらゆるコミュニケーションのすべてです。
これに気づくことが教育の第一歩であり、良い縁づくりといえます。
つまりコミュニケーションとは、根源的ないのちに触れることに他ならないのです。
アサーションとは根源的ないのちに触れる
智慧とは道理・真理を知って働かせる能力。
慈悲は苦を除き、楽を与えようとする心。暖かさを灯せる能力。
つまりアサーションとは理屈ではなく、人の心に真実の灯りを灯すような関わりといえます。それが原因となって違いが飛躍できるような結果を現実にする。
そうすることで、阿頼耶識にある悟る可能性のある力が開かれ、悪い可能性が閉じられます。
こうして形を整えた阿頼耶識は表層心と縁をもつこと、
つまり原因と結果を繰り返すことで、表層心が磨かれていきます。
なれない理由④考え方がアサーティブでない
アサーティブになれない四番目の理由は、ものの見方、ものごとののの見方、ものごとの考え方がアサーティブでないことです。
たとえば、あなたは次のような考えをもっていませんか。
- もの分かりのよい人が好かれる
- 愚痴はこぼしてはならない
- おとなは子どもより偉い
- 先生は生徒より優れている
- 負けることはよくない
- 上司には従うべき
- 人を傷つけてはならない・・・・
私たちは、多くの常識といわれるものや思い込みを正しいと信じて生活しています。
これらの考え方は、親や先生などのおとなによって、子どもの頃からさまざまな形で教え込まれます。よく考えてみると、それはおとなの都合のいい言い分であったり、おとなが子どもを自分の考え通りに動かすための操作的な理屈であったりすることが多いのです。
しかし、子どもは受け入れざるを得ません。養育してもらうために、本能的におとなの言うことに従がおうとします。
それらの考えは不都合であり、誰にでも適応されるわけではないのに、それが積み重なると、それが当然の真理であるような気になり、それに合った行動しか取れなくなるのです。
それが阿頼耶識にしみ込んで「悟る可能性」を閉じてしまいます。
阿頼耶識の悟る可能性を閉じるノンアサーティブ
他者の思いに合わせて、自分の希望や欲求を押さえ、禁止されることの多い生活を送ることになるのは、このような無数の不合理な考え方に縛られているからにはかなりません。
このような考え方を基準にして生活するということは、自分を自分の内面でコントロールしているというよりは、外的な基準でコントロールしていることになります。
もちろん、文化的、伝統的に大切にしたい考え方や、地域によって多くの人が守っている対人関係の知恵はあるでしょう。それまでも、すべて悪いといっているわけではありません。
しかし、アサーティブな人は、それらも含めて対人関係の場面で自分の考えや気持ちを大切にし、敵意やへつらいなくそれを言ってみることができるのです。
アサーションはものごとのアサーティブなとらえ方、アサーティブな考え方と密接な関係があることが分かっていただけたと思います。考え方のアサーションについては、第3 章でさらに検討します。
なれない理由⑤アサーションのスキルを習得してない
多くの人がアサーティブになれない最大の理由は、アサーションのスキルをもってないことにあると思われます。
先に、私たちは社会に適応していく上での、受け入れられやすい考え方や、行動様式をいつのまにか身につけていると述べましたが、逆にいろいろな場面に適切な行動の仕方、自己表現の仕方についてはスキルや方法を習っていないともいえます。
これらのスキルは状況や場面に応じて、かなり具体的に、しかも応用がきくように習っていなければなりません。
たとえば、頼まれごとをしたとき断る方法とか、人との会話の始め方といった具合です。
多くの対人スキルは、子ども時代に身につけますので、子どもをとりまく親やおとなの言動が大きく影響します。
ある種のスキルをもってない親や、社会的スキルの訓練には無関心な親に育てられた子どもは、ある種の対人スキルが学習されません。
一人っ子とか友だちと遊ばない子どもも、観察学習の機会がないため、社会性が育たず、特に、社交的な場面でのやりとりが下手になりがちです。
それでも、思春期、青年期になって、同世代の仲間とのつき合いが増、えると、仲間からスキルを学ぶチャンスが数多くあるのですが、「どうすればいいか」を尋ねることはまれです。
しかもスキルのない多くの人たちは、他の人びとのスキルが、幼い頃からの実行の積み重ねによって身につけたものと考えず、自然にできるものと思っていて、「自然にやれるようになりたい」と言ったりします。
対人スキルも、ゴルフやピアノと同じように、学習し、繰り返し実行するという訓練をしてはじめて、身につくのです。身につくまで訓練したものが他の人にはいかにも自然に見えるのです。
したがってスキルを習得するチャンスがなかった人はそれを学び、訓練すればいいということになります。日常生活の中で、人は、あなたの自己表現のまずきに気づいてはいても、なかなかそれを指摘してはくれません。
一方、自分の言動は他の人が見えるように自分で見たり聞いたりすることはできません。
アサーションスキルがない人自身は、うまくいってないことに、薄々気づいています。
したがって、問題は、具体的で建設的な指摘をどのようにして得るかということになるので、適切なアサーションができている人の言動を観察してみてください。
それを自分の言動と比べると、どんなスキルがあるのか、どんなふうに表現すればよいのかが分かり、それだけでも、自分のスキル向上に役立つでしょう。
それでもまだ分からないことがある人、具体的に自分の問題を練習して解決したい人は、「アサーション(自己表現)トレーニング」を受けることを勧めます。
からだが語るアサーション
アサーション権についてよく理解・納得し、自分の気持ちがしっかり把握できて、ものの見方・考え方がアサーティブで、そして適切な表現の仕方が分かっていても、ときに、言葉や言っていることよりも、行動の方がはるかに大きな影響をもっていることがあります。
アサーションには、非言語的要素がかなり大きな意味をもつことを忘れてはなりません。
アサーションに限らず、対人コミュニケーションには、非言語的な部分が非常に重要な位置を占めます。
からだは雄弁に語ります。
気持ちの表現の仕方、姿勢、表情、声、服装など、すべてがアサーションにはきわめて重要な要素です。これらが言葉と複合してアサーションはより効果的になるのです。
身体的、非言語的アサーションとは、アサーションとそうでない言動との違いを理解することに始まって、アサーティブなものの見方・考え方の獲得、アサーション権への確信、コミュニケーション・スキルの習得、身体的アサーションまで、すべてを一括したものをいいます。
まとめ
アサーティブになれない5つの理由には、
①自分の考えと気持ちが把握できていない
②結果や周囲を気にしすぎる
③基本的人権を使っていない
④考え方がアサーティブでない
⑤アサーションのスキルを習得してない
以上の5つの原因があげられます。
その背後には阿頼耶識(あらやしき)と呼ばれる潜在意識の底の底にある養育期の親への不信があります。
阿頼耶識(あらやしき)は顕在意識とつなぐ潜在意識ですが、人は顕在意識(表層心)と潜在意識(深層心)を行ったり来たりしながらコミュニケーションをしています。
アサーティブなコミュニケーションは、相手と共に安心と安全を確認しながら、一歩、一歩、こころを開いて進めていきます。そのためには顕在意識(表層心)と潜在意識(深層心)への深い洞察が必要です。マインドフルネス実践講座で理解を深めることをお勧めします。