「世界一面白い本」は、3000種類あるという経本から「般若心経」。
「世界一美しいノート」は、世界に一冊しかない「納経帳」。
経本つまりお経の本は3000種類以上あるといいます。根本は同じですが宗派によって伝え方が違うからです。文字数が少ないので有名なのが「般若心経」です。お経は葬式に読まれるものと思い込まれていますが、むしろ生きている方にこそ読んでほしいもので、本文262字 表紙も入れると全文274字と簡単になっています。簡単だから不足があるわけでないのが般若心経の凄さです。そのせいもあり、多くの宗派で使用されている世界でいちばん面白い本です。
「納経帳」は納経帳は霊場巡礼専用の御朱印帳で、その霊場札所に参拝しお経を(読経や写経などで)奉納したお返しにいただくもので、ご縁を結んだ証になるものです。
2度、3度…と巡礼を重ねると、納経帳に参拝の回数だけ印が重ねられていきます(重ね印)。巡礼した順番も、参拝の回数もヒトそれぞれなので、世界に一冊のものになります。こちらは海外からの巡礼(お遍路)も多く、世界でいちばん美しいノートと呼ばれています。
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五蘊(ごうん)と空(くう)
観自在菩薩行深般若波羅蜜多時。照見五蘊皆空。度一切苦厄。
お釈迦様がお弟子さんを前に説法されていた時、誰よりも観音さま(観自在菩薩)は深遠な“智慧の完成(般若波羅蜜多)”の修行をされていて、次のように見極められました。
「人は私や私の魂というものが存在すると思っているけれど、実際に存在するのは体、感覚、イメージ、感情、思考という一連の知覚・反応を構成する5つの集合体(五蘊)であり、そのどれもが私ではないし、私に属するものでもないし、またそれらの他に私があるわけでもないのだから、結局どこにも私などというものは存在しないのだ。しかもそれら5つの要素も幻のように実体のない空なのだ」と。(照見五蘊皆空)。そして、この智慧によって、すべての苦しみや災いから抜け出すことができました。(度一切苦厄)。
「つぶ餡」と「こし餡」で悟る空(くう)
五蘊(ごうん)とは難しい言葉ですが、世の中の森羅万象を認識する「 色(物質)、受(印象・感覚)、想(知覚・表象)、行(意志などの心作用)、識(心)」の五つの要素のまとまりのことです。たとえば、つぶ餡の餡パンとこし餡の餡パンがあったら、五蘊を総動員して、自分の好きな方を選びます。
しかしどんなに迷って選んでも所詮は餡パンも自分も実体のない空(くう)だと気づいたら、すべての苦から解放されて救われたというわけです。
餡パンが人生を左右することはないでしょう。
しかし、取るに足らない女性に恋したものの、よく分からないまま人生初期に身につけた人生脚本に振り回されている上、60兆からなるパーツでできている人間が日々更新され続けているので、朝と夜とは別人であっても不思議ではなく、ホルモンの入れ替わり、骨の更新で三角関係を創り出しても致し方ない。嫌気がさして別れた自分も日々更新されている。トラブルが尾をひいて、諸行無常が理解できず、本来やるべきことにも力が注げず、破滅してしまうヒトもいます。
自分が創り出した妄想といってもいい出来事を速やかに断ち切って人生を楽しむ方法はいくらでもあります。一切皆苦だから立ち止まってはいられないのです。自分さえ固有のものでないのに、モノが捨てられないとはモノに背負わせた重荷が気の毒だ。
「照見五蘊皆空(しょうけんごくうかいくう)」は方便かもしれないけれど、それをテコに「度一切苦厄(どいっさいくたく)」、一切を放棄して、「安らぎ」を手に入れてまとめることができたら、功徳というものです。
幸せと安らぎは別物。
ヒトは幸せがどういうことかわからずに幸せを追い求めていますが、安らぎと幸せは全く別のことです。安らぎは自分の内側にしかなく、幸せは外側にしかありません。全く違う価値観のことを同じだと勘違いしているので、混乱がずっと続きます。実は「幸せ」とは「し合わせ」で「自分が合わせていく」ことです。
ずっと憧れていた一台の車を入手したら他の車に関心を持たなくなります。同じように、心安らぐ愛する異性と暮らしていたら、不倫などして落ち着きのない暮らしをしたいとは思いません。「し合わせ」と安らぎの違いがわかっていないと外側に依存してしまう事例です。
幸せを求めていると外部の物事に求めますが、安らぎは自らが作り出す状態なので、自分を取り巻く環境が全部崩れてしまっても安らぎはほとんど変わりません。幸せには1円の価値もないと覚えているからです。だって「し合わせ」は自分が創るものだからね。
これが般若心経の最初で説いている『観自在菩薩行深般若波羅蜜多時。照見五蘊皆空』なのです。さらに言うなら幸せも安らぎも実体のない空なのです。理解できていたら『度一切苦厄(すべての苦しみや災いから抜け出すことができる)』のです。
つまり幸せでなく、安らぎを求めるようにしょうと反省するかもしれませんが、反省に依存してモノの良し悪しに執着してしまうので、「し合わせ」を創造するには、智慧と行動です。一切を放棄してしまえば、失う恐怖とも不安とも無く、自在に暮らせるというものです。
十二処(六根・六境)六識
仏教では、6つの内部感覚器を六根と表し、六根に対応する6つの外部感覚器を六境に分類される。 内部と外部の感覚器は、以下に対応します。
六根→→→六境→→→六識(唯識論)
眼→→→→色→→→→眼識(視覚)
耳→→→→声→→→→耳識(聴覚)
鼻→→→→香→→→→鼻識(嗅覚)
舌→→→→味→→→→舌識(味覚)
身→→→→触→→→→身識(触覚)
意→→→→法→→→→意識(意識)
眼・耳・鼻・舌・身の5つは五根(西洋でいう五感)といい、仏教およびインド哲学では、五根(五感)にプラスして第六感を挙げています。眼・耳・鼻・舌・身の六種の器官で感知した情報を、六境を通して、統合的に六識で判断します。六根と六境の12を十二処と呼んでいます。唯識は、実体のあるのはこれだけだとしましたが、般若心経ではこれら五蘊も実体のない空だと説いたのです。
渇愛こそが執着の源泉
釈迦は四諦(苦諦・集諦・減諦・道諦)において、苦(Pali)の起源を渇愛(Pali)であると特定しました。十二因縁(十二縁起)において釈迦は、渇愛は受(vedanā)が引きこし、それは六処を通しての触(phassa)からもたらされると説きました。それがゆえ、渇愛と、その結果として生じる苦を克服するには、感覚基盤の抑制と洞察を発達させる必要があるとしました。
十二因縁(十二縁起)の死とは、「老死」のことだと解釈されていましたが、最近の脳科学・心理学では刹那減のことだと認識するように代わっています。モノである脳から心が生まれるのはなぜか?この疑問に「脳から心が生まれる秘密」を発見して話題xになったのが答えたのが
ウォルター J.フリーマン であり、浅野孝雄博士の十二因縁の劇的な解析でした。
「十二縁起」を円環する”わたし”
感覚器官から入った無意識の気づきは脳の辺縁系で大量に起こり、大脳の新皮質に伝わり蓄えられ意識になる種子が育つ大域的アトラクターがこころの部位になります。ブッダが説いた十二縁起とはこころの活動です。
「こころ/魂」の活動の因果関係を説いたものが『十二支縁起』です。「死(刹那減)のあとに、また来る「無明」こそ、「もともとのいのち」のこころ。つまり業であり、鎮めるために「空」への理解が必要なのです。「し合わせ」は自分のあり方次第、励めと声がする。
まとめ
幸せでなく、安らぎを求めるようにしょうと反省するかもしれませんが、反省に依存してモノの良し悪しに執着してしまうので、別の問題が増えます。
全ては実体のない空(くう)なので、一切を放棄(放下著)して「し合わせ」づくり、つまり子どものように「楽しい」に精励すれば、失う恐怖も不安も無く、自在に暮らせます。
では、どうすれば子どものように「楽しい」に精励できるのでしょうか。子どもはじっとしているのが嫌いです。空間があれば所構わず走り回ります。本能です。「本能のままに生きるとは許さん!」と国は義務教育を受けさせました。でもアインシュタインは物理と数学以外は中学並みのレベルです。興味のあることにしか心は動きませんでした。
『子どもを信じて偏見に生きさせないように育てましょう。つまり子どもを守ってあげるのが親の責任です。』
ゲンキポリタン大学
「社会人基礎力」(全6回)
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