子育て、親の育てなおしの柱となる、もっとも古くて、もっとも新しい、三法印の第二の印は、「諸法無我」です。
つまり、諸法無我とはこの世の全ての物事は、お互いに影響をし合う因果関係によって成り立っているものであり、何ひとつ単体として存在するものはないという意味です。
「諸法」は全ての物事のことで、「我」は単体での存在を意味していますが、「無我」なので「ない」という意味です。
『諸行無常』に深く関わっていることがわかりますが、同時に『涅槃寂静』をめざすために理解すべき法印です。
SNS全盛のネットワーク社会は、ヒトを幸せにしているのでしょうか?企業活動を、いたずらにコストダウンに走らせて、個人活動は不便になっているだけでなくリスクだらけになっていませんか?
今回は『諸法無我』のマジックを解き明かします!
万物・万象はつながって存在している
万物は、”宇宙に存在するすべてのもの”という意味で、万象は、”宇宙に存在するすべての現象”という意味。
つまり、この宇宙のすべてのものごとは、縁起によって生じ、存在しているのであって、永遠不変の存在(我)は無いという真理です。
なにごとも、単体で、他と何の関係もなく生じたり、存在したりするものはないということです。すなわち、この世のすべてが、つながりをもち、相互依存の関係で存在しているのです。
われわれのからだを例にとっても、人間の肉体は60兆の細胞ネットワークでできていますが、それらは酸素・水素・炭素・窒素といった三十種の元素から成り立っていて、それらはみな、なんらかの形で地球上の生物・無生物から供給を受けていると同時に、なんらかの形で、宇宙に返しているのです。
一例をあげると、人間は植物が吐き出してくれる酸素を吸って生きており、植物は、人間その他の動物が吐き出してくれる炭酸ガスを取り入れ、炭水化物に変えることによって、成長しています。
つまり、われわれ人間をはじめ生物・無生物のありとあらゆるものは、孤立して、単体で存在する「個」ではなく、多くのものが、シェアしながら存在しているものだとわかります。
目に見えない、耳に聞こえない、多くのモノやコト、つまり眼識,耳識,鼻識,舌識,身識,意識の実体として存在する六識(六根)によって生かされているのです。
法印は子育ての極意
この諸法無我という教えを、それぞれの人生の上に、どう生かすべきか?
地球を使って生きている責任という点で、全員がするべきことを背負って生きています。私、自らが考えて行動する責任があり、そのときに調和と創造を果たすようにしなければなりません。
まず第一に、自分の食べる物・着る物・住む家、その他身辺のすべてのものが、無数の多くの人々によってつくられ、運ばれ、供給されたものであることを思い、同時に、自分のはたらきが無数の多くの人々に必ず影響を及ぼすものであることを深く考え、認知し、行動しなければなりません。それが慈悲のこころであり、慈悲そのものなのです。
つまり、それが正しくできる大人になるように、子育てしなければなりません。
法印つまり三法印・四法印は子育ての柱、極意であることを忘れずに胸に刻んでください。
自分の社会生活は、必ず他の人々をはじめ他の生きとし生けるものとの社会生活とつながり合っており、そのつながり合いは、あたかも無数の網を四方八方・上下左右にくまなく張り巡らしたように複雑窮まるものであることを、親子は、常に観じていなければならないのです。つまり、日常的に心に思い浮かべて静かに観察するのです。
その機会が日常の食事、掃除、洗濯、雑用などに埋め込まれいて、觀じ、感じるこころが暮らしを芸術の域に引き上げて、自分自身をアップデートしてくれるのです。
慈悲でつながる大宇宙
慈悲は一般的に、目下の相手に対する「あわれみ、憐憫、慈しみ」(mercy) の気持ちを表現する場合に用いられる言葉ですが、本来、ヒトは対等なので、ひとに限定せず生きとし生けるものに対して楽を与え、苦を取り除くこと(抜苦与楽)を望む心の働きをいいます。
もし慈悲のこころを持たず、複雑に無数の網を四方八方・上下左右にくまなくネットワークしている社会生活をわがままな力で、無理矢理引っ張り、かき回したら、社会はバランスを崩し、もつれが生じで破れてしまいます。
いつの時代もおなじですが、特に現代社会では突出した特徴です。
ヒトは平等だけど平等ではないのです。自利利他をモットーにするヒトそうでないヒトが同じであることはないのです。
情報化が進展した社会は一見タフなように勘違いされるかもしれませんが、逆なのです。
かってのような社会とは著しく様変わりしています。「このくらい」という甘えと油断が通用しないことを自戒しなければならないのです。情報化が進めば進むほど、身を正し、人間力を高めて、慈悲を強くしなければなりません。
現代は、ともすれば個人の自由と尊厳に注目が集まりがちですが、その分、社会システムにも配慮が必要です。「諸法無我」のメカニズムが働いているからです。
十二縁起
数多い仏教書のうちで最も古い聖典である『スッタニパータ』にある言葉「どんな苦しみが生ずるのでも、すべて無明に縁って起こるのである。」が語るように、「私たちが迷いや苦しみを引き起こす一番の原因は、無知(無明)である」とブッダは『十二縁起』で説かれました。
『十二縁起』は、『十二支縁起/十二因縁』ともいいますが、宗派の違いによるもので、すべて同じ意味なので気にすることはありません。
『十二縁起』は現代心理学でも、『こころ』の所在を解明する上で重要視されています。
「こころ」の活動の因果関係を説いたものが『十二縁起』です。
こころと身体がどこにあるか、知ることから始めます。感覚器官から入った無意識の気づきは脳の辺縁系で大量に起こり、大脳の新皮質に伝わり蓄えられ意識になる種子が育つ大域的アトラクターがこころの部位になります。ブッダが説いた十二縁起とはこころの活動です。
もう一度、十二縁起のプロセスを辿ってみます。
無知であることを「無明」といいます。
なにも分からない、混沌とした暗黒の無知なる状態であり、何かしらの力がはたらいて意識が生まれます。
この何かしらの力がはたらくのを、「行」と言いました。梵語でサンスカーラといい、潜在的形成力などと訳されたりします。
生きる霊的な力がはたらいて、なにかが形成されてきて、意識が生じるのです。
この意識を「識」と言います。
まだこの意識は盲目的なものです。
この盲目的な意識がこの身心にはたらくようになります。
この身心が「名色」です。「名」は精神的なもので、「色」は物質的なものです。
「名色」とは、心と体なのです。
この心と体に、六識(六根)という目や耳や鼻や舌や身体や精神の活動が起こるようになります。これが「六処」です。大乗仏教の部派のひとつである唯識は「六識」と呼びました。
するとその六つの感覚器官が外の世界に触れます。
これが「触」です。
触れると、自分にとって何か心地好いか、心地よくないかと感じます。
これが「受」です。
そこで好ましいものには愛着を生じます。
これが「愛」です。執着であります。妄執とも言います。
愛着を起こすと更に自分のものにしたくなります。
自分のものに取り込もうとしますので、これを「取」と言います。
執着です。そうして自分のものという概念が生まれます。
幼児が母親の愛情をひとりじめしたくて、自分より幼い兄弟に嫉妬するのはよく見る光景ですが、執着の裏には見捨てられる不安が働いています。
自分のものを集めて大事にし、さらにもっと増やしたいという生き方が出来てきます。
これが「有」です。 生存のことです。
そのように生きて活動して、自分の思うままにゆくと悦び、思うままにならぬと苦悩するという生涯を送ります。
これが「生」です。
やがては老い衰え、そして最後はすべてを手放し、死を迎えます。
これが「老死」です。「減」のことです。
この無明、行、識、名色、六処、触、受、愛、取、有、生、老死の十二を十二因縁(十二縁起)といいます。
一切は無常であり、自分という孤立したものはないし、自分の思うようにもいかないのに関わらず、自分というものが存在し、自分の気に入ったものを自分のものにしたい、更にはもっと増やしたいという思いを起こします。
つまり、こう思うことによって苦しみを造り出すのです。
苦しみの原因は、諸法無常、諸法無我であることを知らない、自分という孤立したものはないことを知らない、思うようにならないということを知らない無知(無明)にあります。
無明のネットワークを脱して刹那生減の本質ネットワークに生きたらヒトはどんなにか心穏やかに安心して暮らせるでしょうか?
この無明からどのようにして、私たちが苦しみを造り出しているのかを、よく観察します。
ブッダはこのように何度も同じ言葉で十二因果を繰り返し、繰り返し、十二因縁を観じる修行をされました。円環する十二因縁を観じることで、大事なことは、苦しみの原因は無知、無明、現実を誤ってみることにあります。誤ちを正すとき言葉で行なわず、感覚で捉えることです。そこから生まれたのが「正念」であり、マインドフルネスでした。
マインドフルネスは、いま、ここ、この瞬間、対象になりきることです。何かに没頭している時に気持ち良い時間を体験されていると思いますが、病気があっても忘れています。
そのとき、マインドフルネスのとき、
ヒトは病気を辞めるのです。
常に変わりゆくものが、永続するものと考えること、それが無明です。
自己という固定したものがないのに、あると考えること、それが無明です。
思うようにはならないのに、自分が主宰者のように思う通りにできると考えるのが、無明なのです。
貪りも怒りも恐怖も嫉妬もそのほか数え切れないほどの苦しみは無明から生まれます。
人生脚本は無明から生まれています。思うようにならないことを追体験、再体験して挫折感、無力感を確認しようとする試みです。
その為ネガティブな試みが用意され、最終的にネガティブな結論に達するようになっています。この試みの結果には進化しない「無明」しかありません。
無明の克服についてブッダは四諦と六正道を説いておられます。
すなわち四諦とは、四つの真理「苦諦」「集諦」「滅諦」「道諦」のことです。
八正道は、下の表の実践です。
無明を克服する道の第一歩は、マインドフルネス、すなわち「なりきること」の実践です。このチャレンジは八正道の『⑦正念』で問われています。
なりきることで、無明を克服することができれば、苦しみも超越することができるのです。
刹那生減
十二縁起にある「生死」とは、「刹那生減」のことです。
仏法(唯識思想)では、あらゆるものの存在を刹那滅という考え方でとらえます。
あらゆるものごとは、無数の要素が縁起によって因果関係を結び、存在を構成しますが、その存在は刹那(時間の最小単位)です。
たとえば人間の身体で考えてみます。
ヒトの見た目を一日でとらえると朝と夜では同じように見えますが、実際には髪の毛が伸びている一方、抜け毛も数本あります。見えない部位では、死滅した骨もある代わりに新しい骨ができています、60兆の細胞でできている身体は刹那単位で生まれ変わっているのに、気がつきません。
実際には、瞬間的に生起して消滅する。そして次の瞬間に同じ構成要素によって新たな因果関係が結ばれて、また生起し消滅していますが、それが連続しているので、私たちには持続して存在していると見えますが、実際には瞬間、瞬間の存在が連続して積み重なったものなのです。この考え方を、刹那生滅といいます。
ブッダが『十二縁起』を説いた時期には「刹那」という言葉がなかったので「生死(翻訳)」と表現したのですが、現代の脳科学界では、「刹那生減」と解釈が訂正されています。
マインドフルネスで「無明」を突破する
八正道(はっしょうどう)と呼ばれる八つの正しい教え、学び方があります。
その中に、正念(しょうねん)という教えがあります。念とはパーリ語で、サティといいます。「心のなかで思うこと」を意味します。
念じるの「念」という字は、「今」に「心」と書きます。
つまり「心を今に持ってくる」ということです。
satiは「心にとどめる」「よく気をつける」「心が落ち着いている」というほどの意味である。
例えば、セイロンで小僧が心をとり乱して、あわてて茶碗をわったりすると、師僧は”sati! sati!”(落ち着いて!)といって戒める。
(略 )この語を漢訳では伝統的に「念」と訳し、日本の仏教学界はそれにならっているが、いまの日本語で「念じて」というのとは少しく意味合いを異にする。
引用:『ブッダ最後の旅』(岩波書店)
マインドフルネスとは、いまに集中することです。瞑想はその準備にすぎません。
瞑想だけをいくらやってもマインドフルネスになれません。
集中する対象がないからです。
坐禅で「無になれ」と記憶されている方も多いと思いますが、いかにも日本的な見出しだけを知って本質を知らずにいる日本的な学び方です。対象に集中するには、自意識は邪魔でしかありません。テレビ映りを気にしてボールを追いかけているサッカー選手は皆無でしょう。坐禅はいまここ、この瞬間に集中するトレーニングなので、あえて無になりにく環境にしてあります。対象(経典)に集中するトレーニングなのです。
「お釈迦様は、菩提樹(ぼだいじゅ)の根元で瞑想をはじめ、悟り(さとり)を開いた」と言われていますが、この瞑想とは十二縁起や四法印のロジックをぶっ倒れるまで追求された行為をさしてさしています。その行為に、マインドトーク(雑念)は入り込む余地はありません。つまりヒトは誰でも自分が関心にあることにはマインドフルネスになれるのです。なれないヒトには、源泉から湧き出た水が川を旅するときに、紛れ込む枯葉のような雑念に気を配っているのです。病気も枯葉の一種で、いつの間に雑念に気が奪われているのです。
弘法大師空海が行った高知・室戸岬「御厨人窟」での「虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)」を唱える行はマインドフルネスそのものです。
仏教は、最も当たり前のことを説いているのですが、特別視するあまり仏教の教えが役に立たないものにされているのは悲しいことです。
まとめ
ブッダは、苦しみがどこで生まれるかを、十二縁起で因果関係をロジカルに読み解きました。ブッダが因果関係を何度も繰り返すことで明確にしたのです。
その上で、対策を四諦と八正道にして示しました。自分を忘れて打ち込む。
マインドフルネスは言葉で体験できません。
マインドフルネスは密教でいう大日如来です。つまりイメージです。
イメージを体験するコトで現実になります。
ゲンキポリタン大学
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