「自分の人生のある場所で暮らす方法」で欠かせないのが、主体性です。
主体性とわがままの違いは、他者を大事にできる力があるか、どうかです。
たとえばビジネスに利益の追求が付いて回りますが、売るとはどういうことでしょう。
主体性のある「売る」とは、押して押して押しまくれと思うとしたら最悪の解釈です。
いうまでもなく、売るとは困りごとの解決です。
主体性のある「愛する」とはどういうことでしょう。
いうまでもなく、安心させてあげることではないでしょうか。
共通しているのは「慈悲」ですね。現代風にいうならウェルビーイングです。
慈悲の、慈は「楽を与え」、悲は「苦を抜く」という意味です。
宗教としての仏教の歴史
- バラモン教 – 古代インドの民族宗教。 前13世紀ころ,アーリヤ人がインドに侵入し,そこで成立させた宗教。 ベーダを根本聖典とするので,ベーダの宗教とも呼ばれる。 司祭階級であるバラモン(ブラーフマナ)をカーストの最上位に置き,王族,庶民,隷民の順に厳格なカースト(身分)制度を確立した。
- 1世紀から3世紀にかけて、仏教に押されたバラモン教が衰退した後、4世紀頃にバラモン教を中心にインドの民間信仰を取り込んで再構成されヒンドゥー教に発展する。
この際、主神が、シヴァ、ヴィシュヌへと移り変わる。バラモン教やヴェーダにおいては、シヴァやヴィシュヌは脇役的な役目しかしていなかった。 シヴァは別名を1000も持ち、ヴィシュヌは10の化身を持つなど、民族宗教を取り込んだ形跡が見られる。4世紀頃にヒンドゥー教へ発展消滅。 - ブッダは、「一切皆苦」の謎を解く旅にでて宗教にも答えを求めたが、宗教ではヒトは救えないとして修行に打ち込んだ。その大きな要因はカースト制でした。カーストに関係なく誰でもアクセスできるとことが必要だと信じていたのです。
- 15世紀、イスラムにインドが支配された時代に、一般のヒンドゥー教徒はイスラムの支配にしたがったが、イスラムへの従属をよしとしない一派としてグル・ナーナクによりシク教が作られた。
仏教とその他の宗教
覚りをえたゴータマは、覚った人(ブッダ)となったので。弟子を集めて、教団(サンガ)をつくった。どんなカースト(社会的階級)からも参加できる。同じ服を着て、共同生活をする。托鉢してもらった食べ物を、一緒に食べる。リーダーはなく人間として平等。差別の厳しいカースト社会の反対に位置する理想の空間を創造したのです。
- タントリズム – ラージプート時代前期(7世紀前後)に興隆した宗教的・思想的潮流。ヒンドゥー教や仏教に影響を及ぼした。
- 仏教 – 紀元前4世紀頃に根本分裂によって上座部と大衆部に分裂。7〜8世紀、インドにおいて仏教とヒンドゥー教の対立があったところにイスラム勢力が侵攻し、これら3つの宗教の力関係の中で、仏教信者層がイスラム教に改宗するなどして仏教の存在意義がなくなっていったことから仏教が衰退消滅に向った。その後インド国内では完全に消滅。しかし東アジア、東南アジアでは文化の基盤として浸透し、現在も世界宗教として続いている。現代においてアンチ・カースト活動により信仰が再興。
- タントリズム – ラージプート時代前期(7世紀前後)に興隆した宗教的・思想的潮流。ヒンドゥー教や仏教に影響を及ぼした。
- アージーヴィカ教 – 六師外道の一人であるマッカリ・ゴーサーラが創唱した宗教。13世紀以降にジャイナ教に吸収され消滅。
- チャールヴァーカ – 六師外道の一人であるアジタ・ケーサカンバリンが創唱した宗教。15世紀頃に消滅。
- ジャイナ教 – 六師外道の一人であるヴァルダマーナが創唱した宗教。現在もインド国内に多くの信徒を持つ。
- シク教 – グル・ナーナクによって16世紀に創唱された宗教。
- アイヤーヴァリ – アイヤ・ヴァイクンダルによって19世紀に創唱された宗教。南インドのタミル人を中心に多くの信者を持つ。
- チベット仏教(チベットぶっきょう、チベット語: བོད་བརྒྱུད་ནང་བསྟན།)は、チベットを中心に発展した仏教の一派。根本説一切有部律の厳格な律に基づく出家制度、仏教の基本である四聖諦の教え]、大乗顕教の諸哲学や、金剛乗の密教までをも広く包含する総合仏教であり、独自のチベット語訳の大蔵経を所依とする教義体系を持つ。中国、日本、チベットなどに伝わる北伝仏教のうち、漢訳経典に依拠する東アジア仏教と並んで、現存する大乗仏教の二大系統のひとつをなす。8世紀-12世紀にかけて後期密教(無上瑜伽タントラ等)の教えを中心としたインド密教を広範に受け入れ、独自に消化した点にも大きな特徴がある。リチャード・ギア、キアヌ・リーブスなど造詣の深い有名人も多い。
文化として仏教
日本に「仏教」が入ってきたのは369年。朝鮮半島では高句麗(こうくり)・新羅(しらぎ)激しい侵攻を受けていた百済が、日本へ同盟と軍事援助を求めて「七支刀」(しちしとう)を贈ったのが始まりであると伝わっています。この七支刀は国宝に指定され、現在は「石上神宮」(いそのかみじんぐう:奈良県天理市)に所蔵されています。
その後も百済からの度々の軍事援助を請われます。この頃は国境という概念もなく、お隣さんから見返りに百済の「聖明王」(せいめいおう)より仏像や経典が贈られた感じです。仏教伝来(仏教公伝)とは、国家間の公的な交渉として仏教が伝えられたことを指しますが、すでに渡来人(中国、朝鮮半島からの移住者)などにより私的な信仰の対象として伝わっていました。
この頃の日本は文化的に未発達でした、当時の仏教は宗教というよりも、大陸で生まれた最新の文化でした、新しい文化を取り入れることで国際的な地位を上げることに繋がると考えられていました。文化は西(インド)から東に流れていたのです。
「日本書紀」の「仏教公伝」(ぶっきょうこうでん)の項では、欽明天皇自ら「仏の相貌端厳し」(ほとけのかおきらぎらし)と仏教教理の深遠さとともに、仏の顔のきらきらと光り輝く仏像の神秘な美しさに心打たれたようです。
蘇我VS.物部の仏教抗争
伝来した仏教が、大和朝廷内ですんなりと受け入れられることはありませんでした。
仏教推進派の「蘇我稲目」(そがのいなめ)と、神道を支持する仏教反対派の「物部尾輿」(もののべのおこし)とが、激しく対立したからです。その背景には政治的対立がありました。
蘇我氏は、渡来人とのかかわりが深く、本格的に仏教が伝来する以前から仏教を信仰していたようです。そのため未だに蘇我氏の出目はミステリーとされています。蘇我氏は渡来人達から大陸の最新技術や文化の情報などを入手しており、欽明天皇は蘇我稲目を通して大陸の情報を得ていました。加えて、蘇我稲目は2人の娘を欽明天皇に嫁がせていることから、欽明天皇は蘇我稲目の意見を粗雑に扱うことができませんでした。
一方の物部氏は地方の有力豪族で、蘇我氏のように皇族の血縁関係も渡来人との繋がりもありません。物部氏が蘇我氏と並び、天皇との結び付きを深めるには、実務で信頼を勝ち取るしかありませんでした。
こうした事情から代々の物部氏は特定の分野に特化し、軍事や警備を司っていました。
そこで蘇我稲目が推進する仏教を受け入れられることになれば、ますます蘇我稲目は欽明天皇から重用されるようになります。物部尾輿は反対の意見を見せますが、近隣諸国と肩を並べる文化の育成を望んでいた欽明天皇は仏教を受け入れる決断を下しました。こうして、蘇我稲目と物部尾輿による崇仏論争は蘇我稲目が勝利しますが、俄かに起こった疫病の流行は仏教の信仰が原因と訴える物部尾輿の意見が通り、廃仏運動が逆転勝利します。
570年(欽明31年)に蘇我稲目が亡くなり、翌年には欽明天皇も崩御。物部尾輿も亡くなり、570年代を境に世代は子へと受け継がれて敏達天皇(びだつてんのう)の時代になると、稲目の子、蘇我馬子は流行の疫病に罹ります。尾輿の子、物部守屋(もののべのもりや)は、蘇我馬子一族が仏教を信仰しているが原因と進言。寺院を壊し、仏像や仏殿を焼き払います。天皇は蘇我馬子だけに仏教の信仰を認めますが、585年(敏達14年)に敏達天皇が死去。その子「用明天皇」(ようめいてんのう)が天皇の位に就きますが、病で崩御。
蘇我馬子と物部守屋は皇位継承問題で対立し戦が勃発し、587年(用明2年)の「丁未の乱」(ていびのらん)で蘇我氏が勝利しました。丁未の乱で、蘇我馬子側の勢力に付いていた皇子のひとりが厩戸皇子(聖徳太子)です。
「丁未の乱」勃発
593年(推古天皇元年)に、日本初の女性天皇「推古天皇」(すいこてんのう)が誕生。
推古天皇と蘇我馬子、厩戸皇子の三者の共治により国政改革を進めます。丁未の乱が起こった際に、蘇我馬子は奈良明日香村に飛鳥寺を建立を誓い、厩戸皇子は大阪天王寺に「四天王寺」を建立を約束していていたので、これを実現します。
鎮護国家の礎としての仏教
さらに、601年(推古9年)に、推古天皇が飛鳥宮(奈良明日香村)から奈良県生駒郡斑鳩町の斑鳩宮(いかるがのみや)に遷都すると、厩戸皇子は邸宅内に世界最古の木造建築物として世界遺産になっている「法隆寺」を造営します。こうして仏教は鎮護国家の礎として定着していきました。JR&近鉄奈良駅からバスツアー開催中
600年(推古8年)には、途絶えていた中国・随(ずい)への20年ぶりの遣使が行われることになり、600年(推古8年)と607年(推古15年)に遣隋使を派遣。
当時世界一の文化水準にあった中国との差を知ることとなり、使節からの報告をもとに国内を整備することになります。そして日本史上有名な「冠位十二階」が603年に制定され、「十七条憲法」が604年に制定されます。こうして推古天皇、厩戸皇子、蘇我馬子による国政改革は、古墳時代から飛鳥時代への幕開けとなり、仏教興隆にも大きな影響を与えました。飛鳥時代の終盤には行基が登場、民衆を助け支持され、奈良東大寺の大仏つまり盧舎那仏坐像(るしゃなぶつざぞう)建立に奮闘することになります。
まとめ
仏教の特長は、部派を問わず、智慧と方便に尽きると言っても過言ではないと思います。智慧と方便は現代人が生きる上で欠かせないスキルです。ただしその根底に「慈悲」がなければなければ、単なる詐欺師になってしまう恐れがあります。「慈悲」は仏教の基盤であり柱です。たとえば進路を見極めようとするヒトに対峙したとき、これらの要素がひとつがかけても進路を示すことはできません。つまり慈悲には世界を、未来を見る確かな目が必要であり、その目線の先にはウェルビーイングがなければなりません。
仏教の伝来は、受け入れ側に「平等」への希求があってのこそです。
ブッダが求めたのも「平等」にありました。天皇・朝廷が統治を考えたとき、平等は大きな課題でした。その形を具現化したのは「法隆寺」であり、さらに盧舎那仏坐像(大仏)建立でした。現代を生きる私たちは未来に向かって進化した平等であるウェル・ビーイングの岐路に立っています。
ゲンキポリタン大学
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