誰でもできる善根みがきのススメ『無財の七施』

誰でもできる無財の七施 子育て
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お遍路の心得として意識しているのが、「無財の七施」です。しかし慣れない土地を歩いていると、逆にお接待をはじめ同じお遍路さんをはじめ出会うヒト、出会うヒトから「無財の七施」を浴びるように体験します。見た目の出で立ちからしてお遍路ルックではないのですが、弘法大師の恵みなのかと考えてしまいます。

歩き遍路は、お遍路のなかでも費用が高くつく方法です。歩く速さで宿泊数も変わるので遅ければ遅いほど宿泊代も嵩みます。50日かかればざっと4〜50万円は飛んで行きます。車はいちばん安くお遍路できます。少し体に負担がかかりますが車中泊をすれば無料です。歩き遍路にありがたいのが無料で宿泊できる「善根宿」です。トイレなし、風呂なし、電気なし、原則先着おひとりさまという条件がついていますが、費用をかけずに遍路したいヒトあるいは原体験を求めるヒトに無料はありがたいものです。

無財の七施」とは「七つの施し」のことです。
眼施和顔施言辞施身施心施床座施房舎施の七つです。無財というようにお金は要りません。心掛けの施しです。私たちが日頃から心掛けていれば、自然と菩薩の気持ち、心、菩薩の道、それが養われるといわれます。これを普段から実践していれば、菩薩の心が養われるのです。

Naoさん
Naoさん

暮らしを芸術に。子育てはアートです。

ゼロから生まれる「無財の七施」

第45代天皇である聖武天皇(701年〜- 756年)が目指した菩薩は、現代でも可能なものです。必要なのは、見返りなど期待せず、他者に手を差し伸べることです。
それは毎日の、ほんの少しの心掛けでよいのです。

●手の差し伸べるときに大切なのは「見返りを求めない」

われわれも皆、心がけの習慣化で、菩薩になれます。
美しい習慣を自分のものにしたい、なりたいと願うなら、誰でもなれます。
ヒトはなりきることができる生きものだからです。

そのコツは、ゼロ(無我)になることです。つまり自分はいない。
自分がいなくなるとは執着を全部手放すことです。

東大寺の大仏は無財の七施で完成した

無財の七施で完成した東大寺の大仏

世の中では、干ばつや大地震などで多くの民衆が苦しみ、天然痘の流行で権力者も次々に病死し、政権争いが続くなど、天皇の心が安らぐことはありませんでした。

そこで聖武天皇は「仏教の力で国を安定させたい」という一心で、国家の災いを取り払う「金光明最勝王経(こんこうみょうさいしょうおうきょう )」の教えをもとに、諸国に国分寺と国分尼寺を建てるよう命じました。

そしてこの時、かつての山房が大和国の国分寺に定められました。やがて「平城京の東にある国のお寺」という意味で「東大寺」の名が定着したのです。

「民衆と一丸となって大仏を造りたい」

という天皇の思いを実現する役目を担ったのは各地で池や橋を造るなどして人々を助けて民衆からの信頼が厚かった「私度僧」(しどそう)の行基(ぎょうき)でした。

行基像

「私度僧」とは、国家の許しを得ていない僧侶のことです。行基は以前から国に抗い、しかも弾圧を受けても国に叛逆する様子もなく、全国を巡り、布教を行いながら、布施屋(=善根宿)をつくり、ひたすら道路を整備し、池を掘り、橋を架け、寺を建てるなどの慈善活動を継続していました。民間の支持は厚く「行基菩薩」と呼ばれました。空海も大学をドロップアウトして放浪しているときに伝承を耳にしたでしょう。
行基の行動のルーツは師である玄奘三蔵法師に学んだ法相宗の開祖である道昭、義淵にありますが、特に義淵が社会事業に熱心だったようです。

朝廷は活動を認めて「行基法師」と認定、さらに随行する修験者を僧尼と認定したのです。こうして行基は超人的なスピードで社会事業を次々と達成していく行基集団と共にありました。

廬舎那仏(大仏)建立にあたって問題は、膨大な費用と労働力の捻出でした。
聖武天皇はその業務を行基へ依頼します。行基は早速、信徒達を連れて、全国各地を旅して回りながら勧進(かんじん:信者を説得して寺院、廬舎那仏(大仏)建立などの寄付金を募ること)を行いました。

行基(日本語字幕)

巨大な仏像造りに使われた銅は500トン以上、金は440キロと記録が残っており、まさに国を挙げての大事業でした。最初は金が十分に集まらなかったので、義淵の弟子である良弁(ろうべん)ら僧侶が祈ったところ、奇跡的に東北で黄金が発見されたと伝わります。

大仏の制作現場においても行基は先頭に立ち、采配を振るったと言われます。しかし行基自身は完成を待たず病に伏し入滅します。

行基の師は、法相宗の開祖、道昭(どうしょう)です。道昭は、遣唐使の一員として入唐し、玄奘三蔵に師事して法相教学を学びます。晩年、遊行し、各地で土木事業を行っています。行基はこれに習い、慈善活動に没入します。人種・所属性・さらに自分であることさえ外して、外して「無財」に到達するのではないでしょうか。「無財」とは「お金」も含めて、執着が全くないという意味で『ゼロ』なのです。

そのことで皆さまにお勧めするのは、簡単なことです。

善根をみがくススメ

無財の七施

「施」とは、ほどこしをすることで、布施(ふせ)のことです。
日本では葬式仏教が主体なので、読経のお礼としてお寺さんにさしあげるのも布施の一つですが、そのことだけをさす言葉ではありません。

「施しは無上の善根なり」という言葉があるように、布施を施すことは最も大切な仏道修行です。新興宗教はこれを逆手にとって財産を捲き上げる非道なことを常習化しているので、勘違いしないようにしましょう。大切なのは主体性は自分にあることを忘れないでください。

普通に「布施」と云えば、財施、法施、無畏施の三種類があります。
この三種の中の「財施(ざいせ)」は、貪(むさぼ)る心、欲しいと思う心、恩にきせる心を離れて、お金や衣食などの物資を必要とする人に与えることをいいます。
法施(ほうせ)」は、物質財物ではなく、教えを説いてきかせると云った、相手の心に安らぎを与えること、精神面でつくすことです。僧侶などが行うべき最も大切なことですが、一般人でも朝礼などにチャンスがあります。
「無畏施(むいせ)」とは、恐怖、脅え、不安などを取り除いて、安心させてあげることです。

施すべき財もなく、教える智慧もなし、ましてや人様の不安などを取り除いてやることなど思いもよらない、という人の方が圧倒的に多いでしょう。そこでブッダの教えが「雑法藏経」というお経の中で説かれています。それが「無財の七施」で「費用も資本もそして能力も使わないで実行できる七施として、七つの施しがある」と挙げておられます。「無財の七施」とは、物でもお金でも、今それを必要とする人々のために心を込めて捧げることであり「自分自身の善根をみがくススメ」をしているわけです。

施しは、決して見返りを求めるものではありません。見返りや対価を期待してするものではないのです。施しは、捨て去ることと同じです。
「これをしてやるから、何かをくれよ」とか「お前が何かしろよ」というものではなく。あくまでも布施、施しは、対価を期待するものではないのです。

人生の方程式

人生の方程式

人生の方程式は「精進ー妨害=結果」なので結果を最大化する方法は、子どもでもわかるように、最大限の精進をして妨害を最小にすることです。ところが現実には方程式を守れない人がゴロゴロしています。

結果を最大化するためです。求める結果、結果の求め方が正しくないと間違ったことをしてしまいます。それを整えるのが、菩薩の慈悲のこころです。自分の人生を豊かにするためです。

観世音菩薩(観音さま)とか虚空蔵菩薩(虚空蔵さま)と呼ばれる菩薩には、求道者、仏道修行者と云う意味があります。では、なんために修行(精進)するのでしょう。
子供なら不要不急が仕事ですが、まともな大人なら「必要火急(至急)」が当然です。つまり豊かさを追求して精進するとは、慌ただしさのなかに自分を見失う可能性が大人だからあるのです。

その精進を整えるのが菩薩の慈悲のこころです。菩薩の姿は出家前のブッダの姿をしていますが、菩薩は如来の命令に応じて、仏の慈悲の行いを実践することで衆生を救う役割を担っています。

それが、ゼロから生まれる「無財の七施」です。

もともと執着心と悟りは本質的に同じものです。執着心を悟りに置き換えて行く作業が善根のススメであり、具体的な方法が「無財の七施」であり、「八正道」の道であり、「生になりきる」旅なのです。

八正道

八正道ブッダの有名な言葉のひとつに「四諦(したい)」という言葉があります。

「諦」とは「真実」の意味で、以下の4つです、

  1. 苦諦(くたい)とは、人生の真相は苦(四苦八苦)であるという真実。
  2. 集諦(じったい)とは、苦の原因は自己の欲望・煩悩であるという真実。
  3. 滅諦(めったい)とは、一切の欲望・煩悩を断じ滅して、それから解放されれば、悟りの境地に達することができるという真実。
  4. 道諦(どうたい)とは、この悟りの境地に達する実践法が八正道であるという真実。

つまり、人生の真相である苦から脱して、豊かにする方法の一つに、八正道の実践をあげています。八正道とは、理想の境地に達するための八つの道、すなわち上の画像のような八種の正しい生活態度のことです。

【1】正見(しょうけん)
正しい見解。自己中心的な見方や、偏った見方をせず、正しい物の見方を心がけること。

【2】正思惟(しょうしゆい)
正しい決意。自己中心的な考えを捨て、貪瞋痴の三毒に惑わされず正しく考えること。

【3】正語(しょうご)
正しい言葉。妄語(嘘)、綺語(無駄話)、両舌(両方の人にそれぞれ相反することを言って仲違いさせる言葉、二枚舌)、悪口(あっく)(粗暴な言葉を使う、人をあしざまにののしること)をせず、正しい言葉使いを心がけること。

【4】正業(しょうぎょう)
正しい行い。貪瞋痴の三毒を離れ、正しい行いをすること。

【5】正命(しょうみょう)
正しい生活。世の中の為にならないことや、人の迷惑になることをせず、収入を得て、規則正しい健全な生活を送ること。

【6】正精進(しょうしょうじん)
正しい努力。正しく励み、努力をすること。

【7】正念(しょうねん)
雑念をはらった心の安定した状態。物事の現象にとらわれないで常に真理を求める心を忘れないこと。

【8】正定(しょうじょう)
精神を統一して心を安定させること。心の動揺をはらって、安定した迷いのない境地に入ること

つまり八正道を支援するのが他ならぬ善根のススメである『無財の七施』なのです。

無財の七施

善根宿

無財の七施は以下の7つの施しのことです。

どれも心掛けでできる施しです。それを日頃から、自分も他者もないゼロの状態で習慣に心がけていれば、自然と菩薩の気持ち、心、菩薩の道が養われます。

  • 眼施
  • 和顔施
  • 言辞施
  • 身施
  • 心施
  • 床座施
  • 房舎施

①眼施(げんせ)

眼です。お分かりと思いますが、人と接したとき、相手を睨みつけていたのでは、相手も睨み返してきます。野生の動物と目を合わすなといいます。
しかし優しい眼差しで人と接すれば、相手も優しい眼差しで返してくれます。反対に自分が睨みつけたら、相手だって睨み返します。睨みつけられてニコニコしているわけはありません。相手の様子を伺ってから自分の態度を決めるのではなく、主体的に行うことに意味がある施しです。

②和顔施(わがんせ)

もう、文字からお判りいただいたと思います。
和顔施とは、人と会うときにはにこやかな顔、笑顔で接するということです。
怖い顔をして接したら、相手も怖い顔になります。あるいは、難しい顔をしても同じです。もちろん、自分自身、気分の悪いときもあります。上司に叱られたという場合もあるかもしれません。しかし、それに関わっていない相手にとって、そんなことは全く関係ないことです。そこで難しい顔をしたり、怖い顔をしたりしていたのでは、相手も気分を悪くします。一切を外して、自分を忘れてゼロにします。
笑顔で、あるいは柔和な顔で接するように心がけます。これが和顔施です。

③言辞施(ごんじせ)

言辞施(ごんじせ)も、簡単ですね。言葉、言葉遣い、言葉掛けです。「言葉」で、気をつけるべきは「気持ち」です。形ばかり丁寧であっても心が宿っていないと印象を悪く持たれます。相手を思う気持ちです。いまの時代、電話で行うお客様相談センターは珍しくもなんともありませんが、心のこもった応対ができる企業はどれだけあるでしょう?と、いいながら企業ではなく、ヒト次第なのです。

もちろん「気分が悪いときもあるかもしれない。体調が優れないときもあるかもしれません。でも相手の人は、そんなことは全然分かりません。それで電話で応対したときに、相手に非常に不愉快な思いをさせてしまったら企業の信頼は地に堕ちます。ヒトをおもう気持ちが良い言葉、言葉遣い、言葉掛けを選ぶのです。それが言辞施という施しなのです。

④身施(しんせ)

身施(しんせ)とは、正しい行い、正しい行為、正しい行動のことです。

⑤心施(しんせ)

それからもう一つの心施(しんせ)、これも正しい心持ちのことです。
曲がったことや邪なことではなく、善良な心持ちを持つということです。
そのためには「認知の歪み」を矯正する必要があります。
「認知」とは、その人自身の物事の捉え方や考え方を意味します。
「認知の歪み」とは、正しくあるがままを見ることができず色眼鏡で見てしまうこと、たとえば、いつも自分を精神的に追い詰めてしまったり、些細なことで落ち込んだり、すぐに悪い方向に考えてしんどくなったりしてしまう考え方のパターンのことです。

⑥床座施(しょうざせ)

床座施(しょうざせ)とは、席や場所を譲る「どうぞ」の一言で、電車や会場でお年寄りや身体に障害を持っている方に席を譲ることです。床座施には、 座席だけでなく、全てのものを分かち合い、譲り合う心、相手ファーストが大切であるという意味が含まれています。

もし世界の権力者に床座施のこころがあれば、絶対に戦争は起こりません。損だと思い、譲らぬことが国のためになると考えていたら紛争は必ず起こります。何も悪いことしていないのに・・・」とロケット弾を撃ち込まれ泣いている子どもの心をどう聴きますか?
リーダーに「どうぞ」の心があれば子どもを傷つけることも泣かせることも路頭に迷わせうこともないはずです。

⑦房舎施(ぼうしゃせ)

房舎施(ぼうしゃせ)とは、雨や風をしのぐ所を与えることです
たとえば、突然の雨にあった時、自分がズブ濡れになりながらも、相手に雨のかからないようにしてあげること、思いやりの心を持ってすべての行動をすることです。
『善根宿』はその見本です。

菩薩とは手を差し伸べるものであり、相手の立場に立って、何かをすることです。
布施(ほどこし)には、持戒(規律)・忍辱(たえしのぶ)・精進(努力)・禅定(おちつき)・智慧(学ぶ)を実践、実行しなければならないでしょう。それができるのは、相手を思いやる気持ちがあればこそです。それが簡単にできるには『ゼロ』になること。自分を忘れることです。忘れられた自分はどこに行くのでしょう。みんなの中で生きるのです。

ボランティア活動もそうですね。見返りを得るためにボランティアに行くわけではありません。助けに行く、手助けするのも、菩薩であり、布施行なのです。この布施行を普段から心掛けるということが大切です。そうすれば、菩薩の心、菩薩の精神、そういうものも、自ずと身に付くといわれます。

まとめ

無為な戦争が次々と起こり、家裁の誤った判断による後見人制度の圧迫、野生動物が生きることも困難にしている現代社会の混乱は『無財の七施』の欠如にあると言って過言ではないでしょう。
SDGsもウェルビーイングも外国からの輸入ですが、もともと日本に当たり前として根付いていたことです。

阪神タイガースの優勝に興奮するのも、『無財の七施』の形を変えたものです。
自分の本質に目を注げば、行基と行基集団がやり遂げた社会福祉事業に行き着くのではないでしょうか?お金を使って応援するのも無償で労務を提供するのも根っこは同じですが、損得という言葉で切り分けているので気がつかないだけです。東北の震災にボランティアで復興を応援した「そのとき」を思い起こしてください。

自分の頭で考えるとき、自分の所属性、階級、人種、自分であることを全部外して、外して、もうこれ以上外せるものはなにもないレベルで考えることが大切なのです。

ヒトはみんなゼロ、つながって大宇宙。

大宇宙

 

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