「ウェルビーイング(well-being)」ということばが初めて登場したのは、1946年の世界保健機関(WHO)設立時です。健康、幸福、福祉などに直訳されます。
WHOでは、「健康とは、単に疾病がない状態ということではなく、肉体的、精神的、そして社会的に、完全に満たされた状態にある」という意味で「ウェルビーイング」を使用しています
“Health is a state of complete physical, mental and social well-being and not merely the absence of disease or infirmity.”)
「Health:健康」は、狭い意味での心身の健康のみをさすのではなく、感情として安らぎを感じたり、社会的に落ち着いた良好な状態を維持していることなど、全てが満たされている広い意味での「安心」を表現していると解釈できます。
ひとりでも多くのヒトに豊かで自由にいきいき生きてもらいたい願いをこめて、今日もあなためがけて、格別な安堵感を『お粥さん<食禅>プロジェクト』からお届けします。
あなたがつらい時を応援する<お粥さん『食禅』プロジェクト>の④です。困ったらいつでもご相談くださいね。無料でどんなことにもお答えします。
永遠不滅の因果関係
自分を案じ直接・間接を区別せず関わっていただいた一切衆生の恩に報いるためである。
見えない世界
見えない世界を見ていないからです。
テレビは映像があるものは放送するが、ないものは放送しない。しかも映像には著作権があるので、費用対効果でバランスのとれるものしか放送できない。儲からないものは放送しない。私たちはテレビではない、人間である。
見えない世界は見えないが、こころで見ていないだけで、自分が見ていないだけだ。ライフスキルを高めたら見えるようになる。まだまだ幼いというわけだ。
いのちとは「業」、「生死」は身体のこと
生きるとは身体のことでしかない。いのちとは業のことです。
いのちは身体の生死とは別の次元で働き続けています。
だから身体は脳が考えて言葉に置換する以上に知っているではないか。
身体には60兆の細胞ネットワークがあり脳はこころさえ支配していない。
こころはどこまで業に関与しているのだろうか?「自然界」に身を置けば「ヒトは何層にもなっていて、生死はひとつの層のことでしかない。」のが見える。
業を受け止めるために、ヒトはみんな相互依存の関係にある。
自分をまとめると荷物は減る
自分の人生にラベリングしているアイデンティティを外してみましょう。
その際、年齢、性別、してきたこと、持ち物、経験、財産は、そのままにしておきます。
そうすると自分の日常が消えて、おぼろげながら等身大のまとまりが見えませんか。
本物のライフスタイルはオーラを放つ”まとまり”すなわち「唯一無二の文化」から生まれます。
山登りするヒトは、山登りに必要な荷物以外不要なので、最小限にします。
自分は何者で、自分がどこに何をしに行くのかを知れば、荷物を最小限にまとめることができます。
モノを捨てた方が良いという理由は、自分がどこに何をしに行くか知らず、自分をまとめることができないまま、暮らしているからです。
知らないので、なんでもやりたいという欲求に比例してモノが増えます。
自分をまとめると荷物は減ります。荷物が問題よりまとめられないあり方が問題なのです、
自分を知っているヒトのまとめ方
大邸宅に住んでいるヒトはたくさんのヒトをもてなす機会が多いので、大邸宅に住み、招いたヒトの支援が必要なので、いろんなもので飾ります。言うなれば仕事上の性格上、お店に住み込みで働くのが効率的なのです。それを優雅に見せるところに文化があります。
農民から天下をまとめるまで上り詰めた豊臣秀吉は、天正13年(1585)に関白に就任したこともあり、翌年1月に秀吉は年頭の参内に際して、正親町天皇に「黄金の茶室」を披露しようとした。「黄金の茶室」は移動可能な組立式で、己の威勢を見せつけた。大坂城から京都の御所、北野大茶湯などでも披露した。侘び寂びをポリシーとする千利休がどう思ったかミステリーですが、秀吉の野望を知っていただけに一定の評価はしたはずです。
登山家同様、畳一畳で暮らしている禅僧は極めるために、少ないほど余計な作業が生じないのでモノは不要です。
このヒトたちは自分の役割を知っているので、戦略としてどうあるべきかを考えてモノと付き合うことができます。
一方、自分がどこに何をしに行くか知らずに暮らしていると、まとめられないので、あった方が良いかも知れないと考えるので荷物が過剰に増えます。
人生脚本に弄ばれる顕在意識
なぜ、自分がどこに何をしに行くか判らないのでしょうか。
業が生み出した「人生脚本」に支配されているからです。
「人生脚本」は、潜在意識のもっとも深いところにあり、執着心と連携しやすく、意識して書いた戦略ではないし、目に触れる機会のないので、動機である「不安」が引き金になり不安が繁殖します。
目に見えない不安、お金を損する不安、所有を失う不安、後悔する不安、取り組む不安、変わる不安、退屈への不安、孤独への不安、何もない状態への不安、後ろめたさへの不安、捨てる不安、見捨てられる不安、自分を知る不安、空虚への不安、老いる不安、病気への不安、ルーティンへの不安、ヒトから蔑まされる不安など、限りない不安があります。
無意識の「人生脚本」の支配から脱却するには、自分を知ることです。
自分を知るには、どこに行こうとしているのか?
結果を気にせず実行することです。つまり実行するには目標を持つことです。
吉田松陰の教えに哭く
夢なき者に理想なし、
理想なき者に計画なし、
計画なき者に実行なし、
実行なき者に成功なし、
故に、夢なき者に成功なし
(吉田松陰)
「四苦八苦」の因果関係に集約されるように、人生の方程式は「目標ー妨害=結果」とシンプルです。目標が妨害を払いのける力になります。
もし、目標がなければ妨害OKいくらでもどうぞになり出費はウナギ登り。それでも不安だらけで、依存症に逃げ込みます。
日常がアートなる、文化のある生き方
目標は安心の源なのです。険しい山は誰でも敬遠しますが、人生100年時代なら「集中」に十分な時間が与えられています。松陰先生に学ぶなら人生は期間ではないことがわかります。
妨害(障害)は縁起によって、他者から持ちこまれる場合もありますが、選択しているのは自分のメンタルなので、メンタルが整っていたら妨害は減らせます。不安の駆除はメンタルを整えるには適していません。目標に集中することです。
個人の文化は目標との葛藤から生まれます。人生は生きるもので、所有するものではありません。歴史上、誰ひとり、存続できないと実証されています。つまり縛り付けて固有できないものです。
日常を芸術に高めた禅ZEN
いつも変わらないと思っている料理・掃除・瞑想・睡眠・こまごました雑用も固有できません。ヒトが自分の文化を語れるのは刹那生減の日常の繰り返しです。
禅はこれらを芸術のレベルにまで高めました。
出家した修行僧は教えられる事なく自らの考えで芸術にまで奥行きを深めます。余計なことを排除したから、自分の形でゴエス①整理②整頓③清掃④清潔⑤習慣(躾)を通して、ずっと上手にできるようになったのです。
掃除ひとつにしても、作業を通して、自分自身を、払い清め、行い・身持ちに疑いをはさむ余地が無いほど清らかに磨く自分を磨く、そこに自分ならでは文化があります。
一旦、余計なものへの執着を取り除いたら、より多くの安心が得られて、ロスが軽減されてエネルギーに変わります。
すべての行為の意味が見えてきます。余分を捨てて集中した分、上達する。これが「Less is More」のめざすところであり、禅の境地です。
余分なことやモノを捨てて、身体が生きている間にしなければならないことをする。
これが「文化」です。文化の扉を開くには、必要と余分の違いがわからないと鍵が手に入りません。広告という名を借りた文化であるUSPには、3つの約束事があります。
- 広告(USP)は顧客への問題解決の提案であること
- 解決策(USP)には、唯一無二の独自性があること
- 解決策(USP)は、一度で記憶に残る斬新でかつ普遍的で強力であること
違いを発見する鍵が自分が求めるアイデンティティーではないでしょうか?
生きるよろこびとは、自分ならではの文化を生きることに他なりません。
月の兎の「捨身施」
遍路修行では、各札所のご本尊さま(本堂または金堂)とお大師さま(大師堂)に、お経を(読経、写経等で)奉納いたします。お礼に御朱印を授かります。つまりお布施をしたお礼に御朱印をいただくわけです。このやり方、あり方が海外からのヒトの心を掴んでいます。巡礼という行為は海外でも散見されますが、施しの結果である御朱印帳は世界で一冊の美しいノートとして人気です。それ以上にお遍路が一味違うのはお遍路さんとお接待さんの関係です。双方が自分のために自分が主体的にしていることなのに「三方よし」になっている仕組みの文化です。
「施しは無上の善根なり」と云う言葉もあるように、布施を施すことを最も大切な仏道修行です。施しとは、物でもお金でも、今それを必要とする人々のために心を込めて捧げることです。
観世音菩薩(観音さま)とか虚空蔵菩薩(虚空蔵さま)と云われる菩薩と云うことは、求道者、仏道修行者と云う意味を持つもので、仏教の信者として六波羅蜜(六度=布施(ほどこし)・持戒(規律)・忍辱(たえしのぶ)・精進(努力)・禅定(おちつき)・智慧(学ぶ))を実践実行しなければならないとされています
身を捨てて、ヒトに施すのが「捨身施(しゃしんせ)」です。
森の中に狐と猿と兎が仲良く暮らしていました。飢えて死にそうな旅人が通りかかった、三匹は旅人を助けるために食糧探しに出かける。狐が川魚をもって帰ってきた。猿は果物を取って帰ってきた。兎だけは何も手にせずに申し訳なさしうに帰って来ました。そして猿に薪を集めてくれと頼み、集めた薪を積み上げて火を点けました。燃え上がったのを見て、自分を食べてくれと身を投じたのです。
そのとき、旅人はたちまち菩薩に変身して、兎を月の世界に生まれさせたのです。
これが「捨身施」です。
常人には真似のできない施しですが、できないと諦めるのは早計。
私はお遍路でお接待さんに出会いますが、まさにその典型です。偶然ではなく朝早くから身を粉にしてお接待するために走り回っている人に出会います。これも「捨身施」です。徳は無償の行為であって徳になります。
ところが世の中はもっと複雑です。自分を食べてくれと身を投じても、知らん顔をしているヒトが存在します。人生脚本に支配されていると鈍感になっていて捨て身の無償の行為すらも、財を投じても響かない。関心は自分にしかない。業(ごう)というのはまことにしぶとい。生きるのが怖いヒトたちです。
しかし「無財の七施」を諦めるのは早計です。
無財の七施
どんなに尊い仏道修行でも、無いものは捧げることが出来ません。
しかし財持が無くても出来る施しがあります。
『無財の七施』といい、自分自身の善根をみがくように努めたいものです。
眼施、和顔施、言辞施、身施、心施、床座施、房舎施の七つです。
- 眼施(げんせ)とは、相手と接したとき、相手を睨みつけていたのでは、相手だって睨み返してきます。しかし人間のみならず優しい眼差しで接すれば、心がやすらぎ安心して接していただけます。
- 和顔施(わがんせ)とは、人と会うときにはにこやかな顔、笑顔で接することです。
- 言辞施(ごんじせ)は、温かい言葉、言葉遣い、言葉掛けです。
- 身施(しんせ)とは、正しい行い、行為のことです。正しい行動です。
- 心施(しんせ)は、これも正しい心持ち、つまり善良な心持ちを持つということです。
- 床座施(しょうざせ)とは、電車などで障害のある方など困っている人に席を譲ることです。
- 房舎施(ぼうしゃせ)とは、宿がなく困っている人に、家に入ってもらって過ごしてもらうことです。
*床座施、房舎施はもっと掘り下げてご説明した方が良いので別途解説します。
先日、ウェルビーイングを成長戦略にしている富山県を旅行しました。大好きな”あいの風とやま鉄道”で富山から金沢に向かいました。平日のお昼でしたが混んでいてたくさんの人が立っていました。中に平然とひとりで二座席使っている若者を見かけました。北陸人ではないなと直感しましたが案の定そうでした。七施を実行することも良いし、施しを受けることもあるでしょう。
「三輪清浄(さんりんしょうじょう)」と言う布施の心得を表現する言葉があります。施しをする側、施しを受ける側、そして施しの手段そのものの三方が清浄であることが大切です。
何か施した後のメリットを考えながら施す。逆に、施しは受けたけれど当たり前のようにお礼も言わない。「三方よし」の文化を大切にしていきたいものです。
まとめ
人生は生きるもので、所有するものではありません。所有しても、失敗も、後悔も、頑な想いも、固有できません。