良い習慣を癖にする|お粥さん『食禅』プロジェクト

ライフスキル2.0
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冒険とは、地の涯まで赴き、危険はことをするだけではありません。
何気ない毎日の隣にいくらでも潜んでいます。
Naoさん
お粥さんプロジェクトで、自分の存在証明を立証するのも、ライフプランを設定して実現するのも、冒険なのです。
Naoman

お断りしておきますが、私たちは宗教を否定しています。お釈迦様もそうでした。お釈迦様は宗教に「四苦八苦」は解決できないと悟っていたので自ら智慧を駆使されました。それば瞑想です。仏教は哲学であり学問ですが、お釈迦様が書き遺したものは一切ありません。
それを伝えるために死後に弟子たちが文字にし、経典にし、宗教化しました。ここではお釈迦様の智慧を伝えるために経典を利用しますが、宗教のススメではないので誤解しないでください。

『お粥さん(食禅/じきぜん)プロジェクト』の目的は、

①食事、掃除など日々の暮らしを整えるのをモチベーションにして、
②理想の自分と現実の自分のギャップを整頓、是正しながら、
③エンドレスにワンダフルに過ごせるライフスキルを自分を掃き清めるように身につけて、
④変わりゆく世の中にあって学び、自由で豊かな思うようなライフシフトができる潔さで
⑤ライフプランを設計して習慣として自分を躾けるように行動することにあります。

これら5つの約束(①整理②整頓③清掃④清潔⑤習慣)は自身の存在証明だと冒険を楽しむように満喫していただけたら幸いです。

人間はなにかひとつでいいから、自然と友達になるべきです。
動物でも植物でも木でもいいので、友達になれたら、自然は自分のものだと身近に思うようになります。自然が自分のものだと感じたら大切にしたくなります。
粗末に扱うのは自分のものだという意識がないからです。

街にゴミを平気で”ポイ捨て”するのはそういうことです。都会も自然の一部だと気がついていない。

先日、クマが家畜を襲うので射殺されましたが原因は人間にありました。自然は自分の領分を 守ろうとします。自分の身を守りたいからです。それを知るためにも身近な安全なものと仲良しになるべきです。地球は人間だけのものではないと身体で知ることから始めた方がいいですね。
宇宙船地球号の一員だった祖先は「いただきます」から自然と仲良しになることを記憶しました。

あるがままに、宇宙船地球号

他国と国境を接していない島国日本に暮らす日本人が、アジアを除く諸外国が日本をどう見ているのか、気にする傾向が強いのは仕方ありません。
いくら外国の情報を入手したとしても、それで「国際化」が進む訳ではありません。外国の真似をした戦争で懲りたように、ありのままに卑屈になることなく高圧的になることなく発信していくしかありません。
日本にとってのはじめての南蛮人代表は、フランシスコ・ザビエルでしょう。
フランスとスペインの国境にまたがってに暮らす国家を持たないバスク人、修道士フランシスコ・ザビエルは、パリの聖バルバラ学院で哲学を学びイエズス会を設立。ポルトガル王ジョアン3世の依頼でインドのゴアに派遣され、その後1549年(天文18年)に訪日。初めてキリスト教を伝えました。
ザビエルが驚いたことの一つは、キリスト教において重い罪とされていた衆道(同性愛又は男色)が日本において公然と行われていたことで、それが原因で大名を激怒させたことでした。
一方で、「彼ら日本人は私の魂の歓びなり」と言ったザビエルの日本での物語は広く西洋で知られることになり、これがアメリカ合衆国政府をしてペリー率いるアメリカ艦隊の日本遠征を決心させる原因になり、やがて「菊と刀」に発展します。
日本人は宗教心が強く、この国の人びとは今までに発見された国民の中で最高であり、日本人より優れている人びとは、異教徒のあいだでは見つけられないでしょう。彼らは親しみやすく、一般に善良で悪意がありません。驚くほど名誉心の強い人びとで、他の何ものよりも名誉を重んじます。
たいていが貧乏で、武士、平民を問わず、貧乏を恥辱とは考えず、金銭より名誉を大切にして節度がある」と深く畏敬の念を抱いていたようです。
ザビエルは、国を持たずフランスとスペインの谷間で、山川草木を愛して暮らすバスク人に似たあり方を観ていたのかも知れません。国家を持たないバスク人にとって、国家とは山川草木であると考えていたのでしょう。
日本人が世界に誇れる顔は、ヒトと自然を大切にして「環境保護」などとふざけたことを言わず、地球と共に生きる姿ではないでしょうか。
スーパーに並んだ魚ではなく、海を泳ぐ魚を真っ先にイメージできるいわば富の山に暮らす「富山脳」です。

神道の国/日本

山は食材や水などさまざまな恵みをもたらす場所であり、神が宿る神聖な場所でした。
食べものを頭上におしいただき、山の神に感謝しつつ食べることから、「いただきます」ということばができあがったといわれています。日本人の風貌はイヌイットとよく似ていると言われます。魚まで似ているそうです。

食べものの命をいただくことに対する感謝が「いただきます」だとしたら、やはり、命の進化といったものにも考えが及ぶと思います。

食べものを目の前にして、そこに宿っている命がどのようにして生まれ、どのような進化の歴史をたどってきたのかを想像し、思いをはせる必要があります。

それは食べものに宿る命と自分に宿る命の間に働いている「縁起」を感じ取るチャンスです。
また同時に自分がたしかに生きているのだということを実感することでもあります。
一時期、コロナで黙食が当たり前になりましたが、食べものの命と食べるヒトの命を感じ取るチャンスでした。それをヒトの成長、特に子どもの進化にどう生かしたか教師、親の生きる力、想像力が問われたことは言うまでもありません。

日本は神道の国であり、山岳信仰を拠り所にしました。地方に点在する豊作を願うお堂が古を物語ります。6世紀に大陸から伝来した仏教とが密接に結びつくことで神仏集合の国になりました。

神仏習合とは、「神道」という名で宗教化される以前の「カミ」と呼ぶべき観念も含めた日本列島固有の神にたいする信仰と、仏教が結びつき成立していった状態・現象を指します。

たとえば神社の本殿に仏像を祀る、仏教寺院の境内に神殿を構えるといった状況にありました。
その原因は6世紀半ば(有力説は538年)のこと。百済の国から朝廷へ仏像や経典が贈られ、欽明天皇はこれを歓迎したものの、仏教を普及させることについては慎重だったようです。

ところが道理を説いた仏教を日本に広めたいと願う蘇我氏と、仏教普及に反対した物部氏が、双方対立して争うこととなります。ともに有力な豪族であった両氏ですが、結果は蘇我氏が勝利し、日本に仏教が広く伝わることとなりました。

その後、聖徳太子が仏教精神を政治に取り入れ十七条憲法第二条を天下に公示されたのを機に貴族社会に仏教崇拝が広がりました。685年天武天皇の「諸国の家毎に仏舎を造り仏像を安置し、礼拝するように」との詔勅(みことのり)があり広まったされていますが、一般庶民の各家庭に広まったのは江戸時代中期頃からとされています。

それは寺社奉行のもとで寺が「檀家制度」により、市役所の働きをするようになったからではないかと想像します。

いまの日本の社会は富の希求が高まり、どんどん雑になり、人間を幸せにする社会からどんどん遠のいている気がします。マインドフルネスやウェルビーイングからどんどん離れているのに言葉だけでが飛び交っているだけだと、ただ気づかないだけなのです。

そうしないと企業活動も停止に追い込まれる危険があるからですが、その副産物として依存を強め「廃人製造社会」にまっしぐらのような気がしてなりません。
進化は理由なしには起こりません。すべての進化は必然なのです。人間に降りかかるストレスは進化の原因ですがお金のストレスに反応しているように見えます。畑仕事は人間が必要としている生きるためのすべてのトレーニングが詰まっていて、まぎれもない進化の宝庫でしょう。

随所作主、立処皆真

随所に主と作(な)れば、立処(りっしょ)皆真なり
この言葉は、「随所作主、立処皆真」随所に主となれば、立処皆真なり。」という、禅の臨済宗の開祖、臨済義玄禅師が修行者に向けて言った言葉です。同時にモテる男性の秘訣でもあります。
女性は信頼のできるヒトに守って欲しいと願うものです。なので、自分に従属するヒトには恋しません。「守って欲しい」と思うから、自分に尽くして喜んでいる男に頼れない.信用ならん。」のです。
ところが結婚したら自分のいいなりになって欲しいと、従属を要求します。
矛盾していません。だから主人といいます。
この主こそが、とても大事な意味を持っています。

何に対しての主なのでしょうか?「随所作主、立処皆真」同様、自分自身の人生に対しての主(あるじ)であれと言っているのです。

私たちが日常生活しているとき、なんとなく何気なく過ごされていることはないでしょうか。自らの人生という観点で見たとき、いかなる状況においても「対象」に組み敷かれてはならないのです。
サラリーマンであっても、自分が主となって仕事に打ち込むのと、知らず知らずの間に滅私奉公的に仕事に使われてはいるのでは、全く違います。
女性は敏感なので、後者の場合は、「私を放置している」と察知して信用しなくなります。

いつの間にか、お酒のとりこにされてはいませんか。スマホのとりこになっていませんか。アップルが新製品を発表するたびに競って並ぶヒトは毎回同じヒトたちだといいます。
彼らはスタッフに対して友達のように接します。お客様なので大事に接しますが冷静に見ています。「彼は自分の人生の主でいるか」
しかし、そう考えるスタッフも、依存ビジネスを助長している典で、同じなのです。

逢佛殺佛、逢祖殺祖

臨済宗の名言に「随所作主、立処皆真」と並んで「逢佛殺佛、逢祖殺祖、逢羅漢殺羅漢、逢父母殺父母、逢親眷殺親眷、始得解脱、不與物拘、透脱自在。」つまり「仏に会ったら、仏を殺せ。親に会ったら親を殺せ」という言葉もあります。

”随所に主と作(な)れば、立処(りっしょ)皆真なり”の極限状態です。仏に依存するな、親に依存するな、自分で考えて、それがヒトのためになると解れば、自ら主体的に行動せよ。となります。
ここに毎日繰り返し薫習する食禅の面目躍如があります。

教祖さまの言いなりになっている金儲け主義のにわか宗教とはここが違います。

人の命は尊いものだと誰でもが分っています。それはお金には替えることができないものです。
たとえ、何千億円を積まれても、それとはとても引き換えることができないものです。
それが、いつの間にか、なにかに組み敷かれてしまいます。たとえば、お金の方が命より尊いと勘違いしてしまう。ブランドが自分の生活より尊いと訳が分からなくなります。

フラペッチーノと命とどちらが大事か子どもでも分かっていますが、行動を見ていると分かっていないのではないかという気がしてくるのは、依存しているからです。依存して時間を食いつぶす方が短期的には、随所に主になるより断然楽なのです。依存する対象はなんでもいいのです。

しかし依存は「疾患」ではないし、根本的に人生は楽かそうでないかで測るものではないし、測れるものではないのです。習慣なのです。

だから仏教は良い習慣を身につけさせようと、2500年も前から、あの手、この手で対策を講じてきたのです。

随処に主となるとは、どこへ行っても自分が大将になって威張ることではありません。
好かれたいので威張っていなくても何かの拍子に自分を認めて欲しいので、お前がアップルで働く以前、古くからのMacユーザだと威張り出します。

しかし、”I’mOK,You’reOK(自他肯定)”自分を認めることができるのは、自分しかいません。
それには自分が主である自分の人生を生き抜くことしかありません。

ブッダから釈尊に

釈尊は最初から釈尊ではありません。

ブッダが「一切皆苦」のこの世界の主になられたから、釈尊になり、「今此の三界は皆な是れ我が有なり、其の中の衆生は悉く是れ吾が子なり」と言われました。

これが主人公の心境でなければならん。この世界はわしの家で、隅から隅までわしのものだ。その中に暮らしておる人類はもちろんのこと、牛も馬も、犬も猫も、魚も鳥も、蝶々も蜻蛉も、蟻や蚊さえも、皆わしの子供じゃ。蟻一匹殺してくれるな。蚊がとまったら血を吸わせてやってくれ。
「なに!空腹で苦しんでいるクマを射殺しただと!なぜ慈悲をもって助けてやらなんだ!」これが世界の主人公の境界でなければならん。そういう大きな温かい心境で日暮らしするならば、その人の行動はすべて真実であることは当然なのです。
ここから彼処に行くと決意された釈尊は同時に「放下著(ほうげじゃく)」とも言われた。
「一切を手放せ。過去に学んできたこと、信じてきたことを、全て手離した先にこそ、本当の未来がある」それを「逢佛殺佛、逢祖殺祖、逢羅漢殺羅漢、逢父母殺父母、逢親眷殺親眷、始得解脱、不與物拘、透脱自在。」という言葉に託された。
「他人の作ったものを崇拝している限り、自由にはなれないし、1人前にはなれない」のです。
たとえ、尊敬する相手の言うことであれ、きちんと距離をとりましょうということです。

五観の偈/折水の偈


「いただきます」と命に感謝して、食材を集めてご馳走を作らせていただくヒトの韋駄天の行動に感謝する。いただくヒトが一切の借りを返すには完食しかありません。完食する気がなければ立ベる資格がないということにもなります
きちんと距離をとることの一例です。

これが食べる前に唱える『五観の偈』の二句である「二、 己(おの)が徳行(とくぎよう)の全欠を忖(はか)って供(く)に応ず。」の意味です。

テレビで口いっぱいに頬張って「完食!しました」とタレントが叫ぶ仮想空間から離れて静かに暮らしたいと思わずにいられない瞬間です。

はたして自分には、いま自の前にあるものを食べる資絡があるのか、その答えも含めた宇宙からのギフトとの交信の一切は「ごちそうさまでした」に凝縮されて終わります。

禅寺では僧侶は「いただきます」も「ごちそうさまでした」ともいいません。

その代わりに食前食後に、調理も後片付けも分け隔て区別せずに、それはまた、一粒の米、一片の野菜、一摘の水であっても同じで、そこに宿る大いなる命によって、私たちは生かされている感謝を『折水の偈』と呼ばれる偈文を唱えますが、その前に完食によって、借りを返します。

完食しない者、食うべからずという不文律の掟があるのです。差し出される命は等しく好き嫌いも許されません。用意する「典座」にも誰一人残さず食べるように美味しい調理に命がけの工夫が要求されます。まさに「精進料理」であり、それは観光客用に用意された選ばれた食材による「精進料理」と全く別物なのです。

行鉢法の一である洗鉢時に唱えるもので、お粥やごはんを食べ終わったあと、「折水」と喝するのに合わせて合掌し唱えるもので、器や匙や箸を洗鉢した浄水を係りの僧侶がもって回る際に折水桶に投ずる時に唱えます。

「私がこうして鉢を洗った水はあたかも天の甘露のような味である。いま私は、この水を鬼神衆にも施し与えることで、すべてのものたちにことごとく満足してもらいたい。この世界は、このうえもなくエンドレスにすばらしいものです。」

器を洗うのに使った水は、ただの汚水ではありません. それは鬼神などへの施しものだととらえています。

その線上にあるのは、たとえ洗いものに使った水であってもそれは信者様からの施しであり、一滴の水も粗末にできないという考えです。


般若は自身であると同時にみんなであるという考えに通じています。つまりお経を唱える対象は自分でありながらみんなを対象にしていることに通じます。慈悲の根本であり、「いただきます」「ごちそうさまでした」の心に通じます。

この『折水の偈』を唱えて感謝を伝えたあとで、各自が器などを作法にしたがって、洗います。修行僧たちが器を元通りにしまったのを見届けて、維那と呼ばれる修行僧を監督する立場にある僧侶が、「処世界梵(しょせかいぼん)」という食後の感謝を伝える偈文(げもん)を唱えて、食事は終わります。

この偈文は最後に唱える偈文ということで、「後唄」と呼ばれることもあります。

その内容を要約すれば、「この世界に生きるのは大いなる虚空に生きるようなものであり、濁りに染まらない蓮華のようなものである。心を清浄にすることこそ、濁りに染まらない何ものにもまさる真理である。私はひれ伏して尊い仏さまに帰依します」という意味ですが、帰依した先に「禅問答」の「公案」のように帰依した仏はもういないのです。つまり食を体験することで世界は繋がっている刹那生起を体験するときといえます。

食事を創る、用意する、いのちを食べる、洗い片付ける、すべてを通して、学習棄却(学んだことを手放す)することは、「逢佛殺佛、逢祖殺祖」なので、大変なことです。忘れるとは濁りに染まらないこと・・・「本来無一物」に戻ること、ただ般若心がある。記憶を身体に託すことに他なりません。価値観は繰り返しの薫習によって磨かれます。

私達は「親から教わったこと、先生から教わったこと、先輩から教わったこと」を真実だと思って生活しています。学校で教わったことが「ウソだった」と言われると、多くの人はショックを受けて否定するでしょう。

しかし、現実的な問題として、人によって最適な価値観は異なります。「適当にやる」「力をぬいてやる」ほうが結果としてうまくいく人もいます。いっぽうで「真剣にやる」「気合いをいれまくる」ほうが結果としてうまくいく人もいます。「自分のため」と意識したほうがうまくいく人もいますし、「人のため」と意識したほうがうまくいく人もいます。会社勤めしていたら欲が出ないけれど、独立したら欲が出るといいますが、逆の場合もあるのです。

つまり正解はひとつではないのです。ヒトによって時によっても正解は違います。ただ、世の中のほとんどの教育は「一つの正解」をまず押し付けるようにできています。ということは、親や先生や指導者に教わったことは、「全て捨ててしまったほうがよい」場合もかなりの確率であるのです。

他人の与えてくれる正解は、しょせんは他人の正解にすぎません。「信号が青の時にわたり、赤の時は止まりましょう」みたいな話なら、模範解答はあります。しかし人生で大切なことの大半には、模範解答はありません。だから新製品が出るたびにアップルストアの先頭に競って並ぶなどもっての他なのだと私は経験を通して思います。自分を主にした世界を生きるとは、そういうことなのです。

しかし依存は「疾患」ではなく、単なる習慣であり、癖なのです。悪癖からは目覚めることが課題でしかありません。「転禍為福(てんかいふく)」・・・お粥さん(食禅)プロジェクトでマンダラチャートとセットで早速取り組み、良い癖に入れ替えてしまいましょう。

宇宙からのギフト/食禅

日本神話を含む多くの古代神話には「親殺し」という「親的な存在を乗り越えていく」というテーマが含まれています。先の女性心理が物語るように、男性は親を超えるというテーマを背負って生きているものです。そこに信頼の絆を感じる女性が母親と友達関係を築くのとは訳がちがいます。
「親や指導者、学校の先生や会社の上司などなど、他人に与えられた正解をぶっ壊す」重要さを昔の人達は正しく理解して教育していたのです。

「ごちそうさま」を超訳すると、「全てに絶望せよ!感謝していただくいのちの先にかがやくいのちがある!」進化の原因は自分にあり、自分でない自分が創るのです。

「己が徳行の全欠を付って供に応ず」なのです。

つまり、この食事をいただくにあたり、人々や社会のための行いや功徳が自分にあるかどうかを考えていただきましょう。と自問自答する。この励ましが自分を主に生きることに他なりません。

この『折水の偈』や『後唄』を唱えることの功徳は、「ああ、私はいまこうして本当に立ぺ終わったのだ」と、しっかりと食べ終わりを実感できることです。

しっかりと「食べ終わり」を実感できれば’「十分にいただいた」と納得ができるのです。

それはお弼一杯でも感じることができます。
それこそが「完食」なのです。つまり「完結」です。完結を実現しているのは、その都度の食べる前の『五観の偈』であり、食べた後の『折水の偈』であり、「後唄」なのです。
はじまりも終わりもないけじめのないあり方が、もっともっとと心の渇きがエネルギーにならない「食」を求めてしまうのです。

「転禍為福(てんかいふく)」・・・禍いの中に福を見つけるには、都度、先入観や習慣に囚われず、いまこの瞬間に自分を主にいきることを心地よく感じているか、不快に感じているか、その認識が大切であり、その基準が「人々や社会のための行いや功徳が自分にある」と信じられること。すなわち自灯明・法灯明なのです。その事実となる灯火はどんなときも確実に次の一歩を踏み出す道を明るく照らします。

まとめ

お粥さん(食禅/じきぜん)プロジェクト
ライフプランは、ライフデザインを反映しますが、ライフデザインはライフスキルと相互依存の関係にあるので、まず金融資産・無形資産の源であるライフスキルを整えます。ライフスキルは「罪悪深重煩悩熾盛(ざいあくじんじゅうぼんのうしじょう)」そのものなので、他者の価値観を強く呼び込んでいるほどライフスキルもライフデザインもライフスタイルも貧弱になります。

依存は「疾患」ではなく、単なる習慣であり、癖なのです。悪癖からは目覚めることが課題でしかありません。「転禍為福(てんかいふく)」・・・お粥さん(食禅)プロジェクトでマンダラチャートとセットで早速取り組み、良い癖に入れ替えてしまいましょう。

『お粥さん(食禅/じきぜん)プロジェクト』の目的は、
①食事、掃除など日々の暮らしを整えるのをモチベーションにして、
②理想の自分と現実の自分のギャップを整頓、是正しながら、
③エンドレスにワンダフルに過ごせるライフスキルを自分を掃き清めるように身につけて、
④変わりゆく世の中にあって学び、自由で豊かな思うようなライフシフトができる潔さで
⑤ライフプランを設計して習慣として自分を躾けるように行動することにあります。

これら5つの約束(①整理②整頓③清掃④清潔⑤習慣)は自身の存在証明だと冒険を楽しむように満喫していただけたら幸いです。良い習慣を癖にして自由で豊かなライフシフィトができるライフプランでエンドレスにワンダフルな人生をお過ごしください。

ゲンキポリタン大学

禅の用語説明

お粥さん(食禅)プロジェクト

「社会人基礎力」(全6回)

コラム