君が君の人生のある場所で暮らす方法【あり方編】

三法印 ライフスキル2.0
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君が君の人生のある場所で暮らす方法について語ろう。

君が君の人生を過ごす上で大切にするべきは「何をするか」ということよりも、「自分のあり方」だ。個人生活でも個人事業主であっても大企業であっても共通の課題です。
「自分のあり方」を育み決定づけるのが「八正道」です。「八正道」は、君の人生を守り抜く規範であり、ガイドになってくれます。これは宗教の話ではありません。哲学、つまり不変の物事の筋道を君に伝えよう。
君が君の人生を生きることは本来なら簡単だ。「精進ー妨害=結果」というシンプルな方程式があるので、妨害されなければ楽勝だ。しかし簡単ではないのは、君の精進を妨害する秘密裡に人生脚本を用意しているからです。君さえ知らない人生脚本に妨害されない方法を語ろう。

「八正道」の前に

八正道

八正道」について、表象的な解釈をするのは難しくはありませんが、考え違いのもとになるので注意が必要です。「八正道」を理解するには、一切皆苦など四法印を理解する必要があります。

四法印とは、一切皆苦」諸行無常」諸法無我」そして「涅槃寂静」の真理を解き明かす4つのキーワードです。真理とは本当のことという意味で「道理」です。道理とは「物事の筋道」正しい論理です。

少し難しく感じられるかもしれませんが、それぞれをご自身に当てはめて考えていくと、とても納得しやすいお話になるはずです。それでは、これらの4つの言葉からご説明していきましょう

真理を理解するには、真理は「縁起」によって生じます。

ヒトが生きるのにも「縁起」が欠かせません。
真理は縁起(原因と結果)によってもたらされる因果関係を説いたものです。

真理・仏性・智慧

種子が成長しある程度まで育つと、どの植物も蕾(つぼみ)ができて、やがて花をさかせます。

種には、植物をあちこちにちらばせて、仲間をふやすという大事な役目があります。
あの小さな粒の中には、親の植物と同じ花がさいて、同じ実になる「もと」のものが、ギッシリとしまいこまれているのです。入れ子状態になっているロシアのマトリョーシカ人形と同じ構造です。

種は、ふつう、黒っぽい色をしているものが多いようです。
黒は太陽が当たったときにあたたまりやすいからといわれています。

種は、地面の上にちったり、まかれたりして、ちょうどいい水気と温度になるとすぐに芽(め)を出す性質があります。栄養は、初めの葉っぱが出るまでは、種の中にあるものを使って育ちます。

根がのびて、葉が出てくると、今度は、根からすい上げた水と、土の中にあった栄養と、葉っぱで作ったデンプンの3つを合わせてどんどん成長していきます。

その後は、植物によってちがいがありますが、ある程度まで育つと、どの植物もつぼみができて、やがて花をさかせるのです。

種からどうして芽がでて花や実をつけるのかという質問には「種の中にその『もと』になるものがあり、周囲の働きがあるから花や実をつける」というのが一番適当でしょう。

最初に芽を出すまでの「もと」は種の中に入っていますが、そのあとは、土の中の栄養をすい上げたり、太陽の光を栄養にして大きくなっていく「縁起」の結果なのです。良い縁がたくさんあると良い結果に繋がります。

ヒトにも『もと』になるものがあります。太古の昔から受け継いできた「生きたい」というエネルギーです。つまりこれこそが密教でいう「曼荼羅」です。思い込みに振り回されない、エゴをすっぱり切り捨てた揺るぎのない真理」です。(自灯明・法灯明)つまり正しい真理とは、ブッダが示しただけで8500あると言います。その中からひとつだけ選ぶとしたら、他者の利益を最優先して自分の利益をいちばん後にすることです。これで争いが起こることはありません。他者を優先することに耐えられないというヒトは真理がみえていないからです。真理が見えたら「私」と「あなた」はなくなります。大切なのは「自分忘れ」です。

うまくいかないのには理由があります。理由はともかく「真理」が君にヒントを提供しています。つまり「あり方」が「真理」に適合していないからふさわしくない行動をとっているのです。これがヒントです。こんな場合、アメリカに渡って禅を伝えた「永平寺」の作法に習い、まず2時間早起きしてみましょう。必ず答えが返ってきます。智慧が働き出します。これが「仏性」です。

四宝印と生きる哲学

四宝印

四宝印

真理は、「一切皆苦(人生は思い通りにならない)」と知ることから始まります。なぜ苦しみが生まれるのでしょうか。その原因を、「諸行無常(すべてはうつり変わるもの )」で、「諸法無我すべては繋がりの中で変化している)」そして「涅槃寂静(悟りの境地)」という四つの真理にあると考えます。

四諦

四諦

四つの真理が避けられない背景に、ブッダ(お釈迦様)は「苦諦」「集諦(じったい)」「滅諦」「道諦」つまり「四諦」があると指摘したのです。

さらに「集諦」では、四苦八苦の原因が人間が十二縁起を認識できないからだと説いています。ブッダは「道諦」をさらに詳しく説いて、八つの修行法も定めています。

四苦八苦

四苦八苦

「苦諦・集諦(じったい)・滅諦・道諦」このうち「苦諦」では、現世は生・老・病・死の「四苦」と、愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五取蘊苦の四苦を加えた「八苦」が あるという「四苦八苦」の真理と説いたのです。

  • 愛別離苦(あいべつりく)・・・愛するものと別れる苦
  • 怨憎会苦(おんぞうえく)・・・怨み憎まねばならないものと会う苦
  • 求不得苦(ぐふとっく)・・・求めて得られない苦
  • 五蘊盛苦(ごうんじょうく)・・・総じて人間の活動による苦

八正道

八正道

いわゆる「八正道」とは、①正見(正しい見解) ②正思惟(正しい決意) ③正語(正しい言葉) ④正業(正しい行為) ⑤正命 (正しい生活) ⑥正精進(正しい努力) ⑦正念(正しい思念) ⑧正定(正しい瞑想)の修行のことです。マインドフルネスは「⑦正念」のことです。

ブッダは、この四つの真理(四諦)を熟知し、中道(八正道)を実践すれば、一切の苦しみから解脱できると自身のいのちの散り際に最後の力を振り絞り弟子を一同の集めて最後の提唱をしました。
つまり道理は、生きとし生けるものはすべて消滅し、創造主によって造られたものは存在しないと いうことを意味しているのです。

世の中のあらゆる出来事や物質は常に変化し、お互いに影響を与え合う相互依存の関係にあります。無常であり、無我であるにも関わらず、人間はついつい物事へ不変を望み執着してしまいます。
無常な世の中ですから一時的に満足する事があったとしても、いつかは思いどおりにならなくなります。しかし、法(道理)に適った正しいあり方を続ければエンドレスにワンダフルが実現できます。ブッダの生涯はそのために捧げられました。

真実は無我(実体としての自分はいない)なので、自分の希望や快楽を追求しても幸福にはなりません。ブッダが生涯をかけて説いたのも、このジレンマによって苦しみや悩みが生じる事実です。

ブッダはこの苦を十二縁起に表し、脱却する方法を八正道に表し、避けられない苦の先に安らぎと幸福があると四宝印で説いています。

ブッダが説いた道理、真理を学んでゆくと仏教が他のどの宗教とも違い、特異なもの(=哲学)であり、智慧を働かす基礎を提供していると分かります。ブッダは自分を他に委ねるなといいました。道理を基準に自分で学び、慈悲をもって自律的に他者と生きろといいました。「自灯明・法灯明」です。

ブッダに学ぶシステム思考「自灯明、法灯明」
「自灯明、法灯明」はお釈迦様の遺言とも言うべき重要な言葉です。この言葉の意味を理解すれば「仏教」が宗教ではなく、哲学さらに心理学であると思うでしょう。自灯明、法灯明ただ誰かから聞いたからといって、それを信じるな。何代も受け継がれたからといっ

ところが、新興宗教はこの哲学を悪用して団体に引き止め、身を委ねさせる仕組みを構築しています。

筏の譬え(いかだのたとえ)」という仏教の教えがあります。筏にたとえ、筏は川を渡るためにあるもので川を渡れば持ち歩く必要はなく捨て去って行くと説いています。考え方やとらえ方を獲得したのちは仏教の教えすら執着になりえるから捨て去りなさいと説いていらっしゃいます。

同じく、禅の臨済宗の名言に「仏に会ったら、仏を殺せ」的なものがあります。この名言には続きがあり「親に会ったら親を殺せ」という言葉もあります。

正しいものの見方を持とうとするならば、決して人に惑わされてはいけない。自分の内であれ外であれ、出逢うものは直ちに殺せという教えです。危険度MAXの臨済禅師の言葉の陰に、人間としての主体性を確立させようという、禅師の熱い慈悲心が隠れているのを、見落としてはいけません。過去に学んできたこと、信じてきたことを、全て手離した先にこそ、本当の未来がある」ということです。

『十牛図』〜入鄽垂手(にってんすいしゅ)

筏の譬え(いかだのたとえ)」の、その姿は「禅の教科書」と呼ばれている『十牛図』の最後の一枚「入鄽垂手(にってんすいしゅ)」にも描かれています。
「入鄽垂手(にってんすいしゅ)」とは、「ぶらりと町に入ってきて、何をするということもなく帰っていく」という意味です。酒を片手にだらしのない出で立ちと体型で町の人々と談笑に明け暮れています。逃げた牛を追いかけていた、かっての牧人の面影はありません。

誰も言わなかった禅「十牛図」九の返本還源(へんぽんげんげん)
返本還源(へんぽんげんげん)の返本とは、本(原点)に返(還る)、源にたち還ること。つまり「はじめに還ること、源にたち還る」いのちの源流に還るとどうなるのでしょう?川を流れる一滴の水が湧き出る源泉から飛び出す瞬間を想像してみてください。あなたの働き方、生き方はいのちが求めていたことですか?

「十牛図」10番目の絵に対して禅問答が投げかけられます。「牧人は、なぜこうなったのか?」

入鄽垂手(にってんすいしゅ)

ぶらりと町に入ってきて、何をするということもなく帰っていくだけで、何も語らなくても、そこにいるだけで、気軽に声をかけるだけで、いのちの本性が、一切衆生慈悲を持って接します。

  • 学問があっても自分だけのために、使うことにどんな意味があるでしょう
  • お金があっても、自分だけのために、使うことにどんな意味があるでしょう
  • 権力があっても、自分のためだけに、使うことにどんな意味があるでしょう

自然の一部として自分を意識することもなく、生きることができるようになった牧人は、真理を悟ったので筏の譬え(いかだのたとえ)」に忠実に行動しているのです。

十二縁起

十二縁起

十二縁起(または十二因縁)とは、人生の苦悩の根源を断つことによって苦悩を滅するための12の条件を円環にして示したものです。無明からはじまる苦の12の原因とその縁(つながり)を示しています。「四諦」を避けるために逆に執着によって生じる煩悩から逃げられない「苦痛」にしがみつく「因果関係(縁起)」による<こころ>のプロセスと「苦のシステム」を説いています。

十二縁起の支分は、無明名色六処老死(刹那減)の12個であり「四苦八苦」の原因を正しく理解したうえで、世の中を捉えることができれば、あらゆる現象に一喜一憂することなく心が安定した状態になるという教えです。つまり、苦しみから解放される、目指す「涅槃寂静」つまり「悟り」に辿り着けるとお釈迦さまは説かれたのです。

それが「十二縁起」の終わりにある「死」です。十二縁起が完成した時点で「刹那」という言葉がなく「死」を使ったと推察されています。「死」とは「死亡」の「死」ではなく「刹那減」です。「刹那」とは最小の時間の単位で「減」とは終わることです。つまり一瞬の終わりです。

無明(混沌とする天地のはじまり)によって
生活作用(志向する本能的な生存欲求)があり、
生活作用によって識別作用(気づき)があり、
識別作用によって、名称と形態(身体と心)とがあり、
名称と形態とによって
六つの感受機能(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識)があり、
六つの感受機能によって
対象との接触があり、
対象との接触によって
感受作用があり、
感受作用によって妄執があり、
妄執によって執着があり、
執着によって生存があり、
生存によって出生があり、
出生によって老いと死(刹那減
憂い、悲しみ、苦しみ、愁い、悩みが生じる。
このようにして、苦しみのわだかまりがすべて生起する。

この心の流れが『十二縁起』であり、一筆書きの円で描かれた「十牛図」の八枚目の絵「人牛倶忘(じんぎゅうぐぼう」で描かれた最高度の完成された智慧の象徴です。

誰も言わなかった禅「十牛図」八の人牛倶忘(じんぎゅうぐぼう/にんぎゅうぐぼう
「人牛倶忘」の状態は、気負いもなく。執着も迷いも生まれない状態です。もはや感情的な人生脚本もなく。日常生活を淡々とルーチンワークで繰り返すだけです。ルーチンワーク(習慣化された生活)を退屈に感じるのは、刺激を自分の外に求めるからですが、もうそんな無駄なことをしなくても、やりがいも生きがいも自分のうちに全部揃っています。

十二縁起は円環することで、「無明」に戻り、一時的に空白状態に陥るが意思があれば、ある方向に向かって進み出す。刹那生減の連鎖が起こります。そこで大切になるのが志向性が働いている「環」であること、つまり「意思」の存在です。

刹那減

刹那減

「刹那生減」とは・・・刹那は時間の単位、これ以上分割できない瞬間のことで、私たちが見ている世界は丁度、瞬間がつながった映画のフィルムのようなもの。

実際は無数の基本的要素が縁起によって因果関係を結び、「私」や「あなた」「物事」の存在を構成しています。ただし、その存在は「刹那生減」一瞬間だけで、物事も瞬間的に生起して消滅します。そして次の瞬間に同じ構成要素によって新たな因果関係が結ばれて、「いま、ここ、この瞬間(刹那)に」また生起し消滅します

見た目には、生起したことが続いているように思えますが、実際には瞬間、瞬間、刹那、刹那の生滅の連続が積み重なったものでしかありません。われわれの存在は刹那毎に生滅をくりかえす心の連続(心相続)であり、そこにある『刹那滅』です。

基本的要素の構成が変化すれば、存在するものも刹那ごとに変化し、必ずのように滅します。

ここにすべてのものが永久に変わらないものはないという「諸行無常」「諸法無我」の言葉で説明されるロジックがあります。

八正道のひとつ、正念(マインドフルネス)は、この瞬間、瞬間に入り込むことです。瞬間に入り込むのは、活動し認識するには、それが、もっとも効果的だからです。

日本文化の「侘び寂び(わび・さび)」とは生起したものが消滅する「いま、ここ、この瞬間、刹那」を祈りにも似た愛でる気持ちの表現と言えるでしょう。ヒトがこの上なく、いきいきと暮している状態だから瞬間に入り込めるマインドフルネスな状態だから、「刹那減」を感じることができるものです。

刹那生減に入り込む「マインドフルネス」

マインドフルネスを瞑想のことだと勘違いされている方が多いのですが、雑念があると瞬間、瞬間、刹那、刹那に入り込むことが困難なので、集中には準備が必要な方が多く、その作業に瞑想が適しているということでしかありません。

刹那生減に感じる「侘び寂び」

侘び寂び

「侘び寂び」についてレナード・コーナンは「不可避の受容」と言いました。

わび・さびは、慎ましく、質素なものの中に、奥深さや豊かさなど「趣」を感じる心、日本の美意識。と一般に思われています。「慎ましく、質素」を桜の花の散り際に当てはめてみましょう。
慎ましい、質素という意味が、自然の摂理に抗わないに通じるかと思います。

変わらないものはない無常な世の中ですから、桜の華々しい満開に一時的に満足する事があったとしても、時が来れば散ってしまいます。いつかは思いどおりにならなくなる刹那の終わりを慈しむのが、侘び寂びです。

刹那の生と減に気づく暮らしは侘び寂びというご褒美を私たちにギフトしてくれます。

弘法大師空海

室戸岬

刹那生減の理解を深めるために、ここで弘法大使空海についてお話しします。

弘法大師空海は774年〈宝亀5年)に香川県で生まれました。生誕地には四国八十八ヶ所霊場 第75番札所 善通寺が建っています。父は地方豪族の佐伯直田公、母は阿万氏の出、玉依御前。その三男として生まれ、幼名は真魚(まお)。兄二人は早世、弟の真雅は空海の弟子になりました。母方の阿万氏は代々皇族や貴族に学聞を教える職を務める名門で、伯父である阿万大足は、桓武天皇の皇子の教育係を務める儒学者でした。空海は幼い頃から聡明で仏教に親しみ、泥をこねて仏像をつくったり、仏様の夢を見たりというエピソードもあります

十五歳になった空海は都にのぼり、伯父である阿万大足のもとで三年間漢籍を学び、十八歳になると当時の最高学府で官吏養成機関である大学に入学します。自身が書き残しているように「昔の人は明かりや蛍の光で勉強し、首に縄を巻き、錐で膝を突いて眠気を覚まして頑張る人もいると、自分を叱陀して勉強に励んだ」といているとおり、大学で主に儒教や道教の経典を猛烈に勉強し、成績は常にトップでした。このまま大学を卒業すれば、エリート官僚としての道は約束されていたのです。

しかし当時の大学は、出世のための箔をつけるためだけに通うエリート意識に満ちた貴族たちの施設であることに耐えられず大学を一年余りで辞めてしまいます。

空海のこころを動かしたのが、のちに24歳の時に自身の出家宣言書ともいうべき『三教指帰』(さんごうしき、さんごうしいき)を著します。この本は、戯曲の形をとり、儒教・道教・仏教の三つの教えを論じて、「四苦八苦」から解放される真理を説く点で、仏教が最も優れていることを表しています。自らの確信を深めたかったのでしょう。空海自筆とされるものが現在も金剛峯寺(高野山真言宗の総本山の寺院)に伝えられて国宝に指定されています。

それを後押ししたのが、私度僧(朝廷の許可なく出家した僧)となり、山岳修行者として、沙門に授けられた「虚空蔵求問持法」を修行する日々でした。

虚空蔵求問持法

虚空蔵求問持法

虚空蔵求問持法」・・・それは、日の出から智恵と福徳をそなえた虚空蔵菩薩の真言を百万回となえれば、呪力が身につき超人的な記憶力と理解力が得られるという修行法です。

この修行は刹那との戦いで「八正道」の真理がぎっしり詰まっています。1時間は3600秒なので12時間で43200秒です。1秒毎に1回唱えても43200回にしかなりません。

弘法大師空海の修行は一日1万回の虚空蔵菩薩真言「ノウボウ・アキャシャギャラバヤ・オン・アリキャマリボリ・ソワカ」を唱えることでした。虚空蔵菩薩御真言です。

この真言を唱え念じると、願いが叶うと言われています。

意味は、「無尽の智慧と福徳を持つ虚空蔵菩薩よ、寶冠の如くの福智を与え、悟りの境地に導きたまえ」です。

100日で100万回を達成する業でした。おそらく空海は何度も煩悩と戦い挫折もしたと思います。
唐に渡る準備も含め、場所を変えたりもしたでしょう。いわゆる空海空白の7年間です。

お大師様が、ついに室戸岬の御厨人窟(みくろど)という洞窟で「虚空蔵求問持法」に壮絶な修行を続けて、早朝100万回を成し遂げたとき、空に明星(虚空蔵菩薩の化身といわれる)が現れ、その輝きが増したと思うと、光の塊となって、お大師様の口に飛び込んできたといいます。

明星は、金星のこと。金星は、虚空蔵菩薩そのもので、このときお大師様は「虚空蔵菩薩と一体化する」という神秘体験をしたと伝えられています。仏教に対する確信を深めたときだったのです。

洞窟の外には空と海しか見えなかったことから、ここで名を「空海」と改めます。

お大師様は、空と海の大自然以外、一切を放下著したのでしょう。

即身成仏して大日如来になる

大日如来像

大日如来は密教の根本本尊とされています。宇宙全体をつつみ込む絶対的な存在で、真理そのものということです。大日如来の慈悲と智恵の光はこの世のすべてのものを照らしだしていると考えられています。ちなみに、お釈迦様は大日如来が現世に現れた姿とされています。

大日如来の教えを理解する(さとりの境地に至る)には、自分自身が大日如来になりきることが最も大切なことだと説きました。つまり自身が生きいている間に仏になる「即身成仏」の教えです。

なぜならヒトは「悟り(さとり)」と「現世利益」をあわせ持っているものと考えます。
すべてのヒト仏性(仏と変わらぬ心)を持っているが、ふだんはそれを忘れていて、執着など煩悩で覆い隠されています。だから、一切を放下著して、自分が本来持っている仏性に目覚めることができさえすれば、仏と一体となって生きたまま、悟りの生活ができると教えています。
つまり四国お遍路でいう「同行二人(どうぎょうふたり)」の構えです。

同行二人

つまり「大日如来」とは、仏像の形をしていますが、森羅万象を奏でる宇宙を包み込む「真理そのもの」なのです。便宜上、大日如来坐像があるだけで、君の化身なのです。大日如来の教えを理解するには、自分自身が大日如来になりきることが最も大切なことだと説きました。しかし実体としての大日如来はいません。君が君の人生を使って真理を語ることで、悟りに到達できるのです。

同じロジックは君にも、あてはまります。便宜上「君」は存在していますが、実体はありません。君は森羅万象を奏でる宇宙を包み込む「真理そのもの」なのです。真理はひとつであるとするのは危険ですが、公案の答えがひとつでないように、10人いたら真理に至る道は10あるのです。つまりそれぞれが真理に至る道を身につける。これが涅槃寂静なのです。あえていうなら自分の利益より他者の利益です。「自利利他」です。その真理そのものになる修行が『八正道』なのです。『八正道』を使ってマインドフルネスになれる状態を実現するガイドになるのが『ウェルビーイング」であり、『マンダラチャート』です。

般若のゴエス

般若のゴエス

般若のゴエスの「般若」とは、「智慧(ちえ)」という意味です。放下著(ほうげじゃく)つまり一切を捨て切った後に残るのは「智慧」しかありません。創意工夫が本来のあるべき姿となります。
一旦、無明に戻り執着を捨てた状態で智慧を仏性を働かせて十二縁起を刹那減でやり直したら、全く違う人生が体験できるのです。智慧を使うために一切を放棄するといっても過言ではありません。

たとえば禅寺に入門しても、伝承されてきた作法があるだけで、理屈を教わることはありません。
作法に学び、つまり真似をする過程で、自分で発見し、面倒なことにチャンスを発見できるのは智慧の力です。智慧によってなんでもない暮らしに予想もしなかった「いきいきしたよろこび(ウェルビーイング)」を体感するようになります。つまり、君が君の人生を生きる智慧になります。

般若(智慧)のゴエスとはローマ字の5つの単語つまり①整理②整頓③清掃④清潔⑤習慣の頭文字をとったもので、突き詰めると仏性を発揮するプロセスです。

「いまを生きよう」「日々の些細なことに喜ぶを感じよう」と頭でわかっていてもなななか実践できません。その秘訣は顔を洗うことという簡単なことから始まっています。タオルの扱い、洗う順番など、顔を洗うだけのことにもゴエスがあります。決めたことを決めたようにすることを繰り返すことが積み重なって、実践力が気負いなくついてきます。気負いなくということが大切なのです。(①整理です)

あとは何をするのか決めるだけです。あり方が決めたことを決めたようにやれるようにしてくれます。ゴエスの習慣に載せるだけです。一日の行事が「仏壇とのつきあい」に及ぶと仏性が働き実践力に磨きがかかります。「仏壇は家の中のお寺」という存在です。つまりゴエスは君のなかの大いなる仏性を引き出します(これが②整頓です)

仏性が引き出されたら、繰り返します(これが③清掃です)繰り返すだけでなく、気負いなく自然に広げて奥義を極めます(これが④清潔つまり磨き上げます)あとはルーティンにして⑤習慣にします。仏性の力であなたの心身の奥にある智慧を使えるようにするわけです。

先にお話したように、「筏の譬え(いかだのたとえ)」という教えで考えてみましょう。筏は川を渡るためにあるもので川を渡れば持ち歩く必要はなく捨て去ってゆくのだと説いています。考え方やとらえ方を獲得したのちは仏教の教えすら執着になりえるから捨て去りなさいと説いていらっしゃいます。つまり気負いなく(=意識しなければ)淡々と継続することで執着から解放されて仏性が働いて自由に習慣になります。

同じく、禅の臨済宗の名言に「仏に会ったら、仏を殺せ」的なものがあります。この名言には続きがあり「親に会ったら親を殺せ」という言葉もあります。正しいものの見方を持とうとするならば、決して人に惑わされてはいけない。自分の内であれ外であれ、出逢うものは直ちに殺せという教えです。危険度MAXの臨済禅師の言葉の陰に、人間としての主体性を確立させようという、禅師の熱い慈悲心が隠れているのを、見落としてはいけない。「過去に学んできたこと、信じてきたことを、全て手離した先にこそ、本当の未来がある」ということです。

仏壇をゴエスする

仏壇のゴエス

(1)仏壇の整理

たとえば仏壇をゴエスすると仏壇は「宇宙につながる家庭のなかのお寺」になります。仏壇を置けないおお部屋の場合は「仏棚」でも大丈夫です。
お土産やお菓子、手紙をいただくと、まず仏壇に供えて感謝の生酛を送り出します。

仏壇で喜びをシェアすれば、分かち合った喜びはさらに大きな喜びを育むシンクロニシティの波動を起こし、見返りを求めない心地よさが、自他肯定のライフスタイルになり、執着を消し去っていきます。

第一に仏壇は故人の位牌を安置していることから、先祖をまつる場所ととらえられがちですが、何よりもまず本尊をまつるための場所です。ご本尊は
天台宗・・・阿弥陀如来
真言宗・・・大日如来
曹洞宗・・・釈迦如来
日蓮宗・・・曼荼羅
というように宗派によって信仰対象が違います。
しかし対象が違ってもどれも仮の姿であり実体は「真理」であることに変わりありません。
仏壇は家庭のなかのお寺」だという理由です。

「仏棚」をお寺にされた方なら、ご本尊は仏像でなくても大丈夫です。お気に入りの石や、写真でも非常時に真っ先に持ち出したい大切なものでOKです。
これで仏壇のあり方が整理できました。

(2)仏壇を整頓する

次に整頓です。毎日1回は必ず訪問します。お屋敷であろうとワンルームマンションでも同じで毎日訪問するものです。

ワンルームなら頻繁に目にしますからお参りしている気分になるかも知れませんが、それは目にしただけで、おつとめではありません。おつとめは「勤行」ともいいます。

(3)仏壇を清掃する

物理的に清掃することはもちろんですが、日常のおつとめとは、「勤行」ともいい、仏様にお経をあげることです。お経をあげていたら、ルーティンとして仏壇用のタオルで清掃します。
「おつとめ」というと義務のようで、堅苦しく感じる方もいると思います。仏壇の前で一日一回手を合わせることで「ご利益」をいただけるとしたら、毎日でも積極的にやりたくなるものです。

家庭から出て仏壇のない生活をしている人なら、たとえ毎日おつとめをしていなくても、故人の命日 、お盆やお彼岸、そしてお正月などにルーティンとして、仏壇の前で手を合わせることでしょう。

おつとめをする目的は三つあります。一つは、災いを除き福徳を招くことです。初詣やお祭りなどで神仏の前で願い事をするのと同じで、それを家庭の仏壇の前で毎日行なうのです。真理は道標になりますし、仏様という人間を超えた存在に礼拝することで、すべてに対して謙虚な気持ちが生まれます。その謙虚な心が結果として周囲への心配りとなり、自然に福徳が集まってくるのです。

二つめは、先祖をはじめ、すてのものへの感謝です今の自分があるのは、両親、祖父母をはじめ、大河の昔から受け継いできた先祖のおかげであることはいうまでもありません。そして、自分自身も寿命が来たら先祖のもとへ還っていきますそう思うことで、死との断絶感はなくなり、安らぎを持って今、この刹那を生きることができます。おつとめによって、刹那を生きている感覚を取り戻すことができます。

三つめは、自分自身の修行のためです。仏壇と親しくすることで自然と自己マスタリーを高める役割を担っています。小さなことでも毎日継続するのはなかなか大変なことです宗では、仏教徒として受戒するときに十善戒(じゅうぜんかい)といって、守るべき良い習慣を授かります不殺生(生きものを殺さないようにしよう)、不邪淫(ふしだらな行為をしないようにしよう)、不妄語(うそをつかないようにしよう)、不悪口(悪口をいわないようにしよう)、不眠悉(怒りゃうらみを持たないようにしよう)などですおつとめは、八正道、つまり自分が良い習慣でらしているかを日々振り返る時間なのです。

「家族に亡くなった人がいないから、うちはまだ仏壇はいらない」「仏壇を購入すると死者が出る」などといった誤解や迷信があるようですが、真理に寄り添うようにしましょう。
仏壇は生きている人のためのものであり、心のよりどころとなるものです。家族が亡くなってからあわてて仏壇を買い求めるよりも、思い立ったときに宗派に合ったものを購入するのがよいでしょう。

仏壇はいつもお参りしやすいところに安置します。仏壇の向きは、できればお寺と同じ南向き(背が北側になる)がよいですが、部屋の都合もありますので向きよりも仏壇が傷まないように、直射日光が当たる気にしなくてよいでしょう。場所を避けて、風通しのよい部屋を選びます。仏壇の上段中央に本尊をまつります。大きな仏壇なら、本尊の左右に脇侍をまつります。向かって右に宗祖・弘法大師(空海)、左には煩悩を焼き払うといわれる不動明王、あるいは智山派や豊山派などの場合は新義真言宗の祖・興教大師(覚鍍)をまつります。絵像(掛軸)でもかまいません。

本尊や脇侍は木像仏具店でも購入できますが、菩提寺を通して求めるのがよいでしょう。開眼法要をしていただきます。仏壇をお飾りすることを「荘厳」といいます。

現代的なおしゃれな三具足

荘厳に必要な仏具は、華瓶(花立て)・香炉(線香立て)・燭台(ロウソク立て)の三具足です。仏壇の下段に向かってて左から華瓶・香炉・燭台の順に配置します。そのほかには、仏前に毎朝ご飯とお茶をそなえるための仏飯器茶湯器、読経のときに使うおりん(打鳴らしてこれくらいの仏具があれば毎日のおつとめにはじゅうぶんです。おそなえしたご飯とお茶はお昼までに下げていただきましょう。

故人の命日やお盆、お彼岸には、お菓子や果物などの供物を高杯にのせてそなえます。
いただきものがあったときも仏壇に一度おそなえするとよいでしょう。

浄土真宗、天台宗、真言宗、浄土宗、曹洞宗、臨済宗、日蓮宗、それぞれ宗派によって飾りかが違いますので、各宗派にお問い合わせください。

(4)仏壇を清潔にする

清潔にするとは、磨くことです。モノそのものを磨くことだけでなく、向き合うこころを磨きます。

位牌過去帳は、仏壇内の段数にもよりますが、本等と脇侍より一段低い位置に置きます。
過去帳は中央に、位牌は向かって右側にします。位牌には、故人ひとりの戒名が書かれた「札位牌」と、先祖代々の位牌を一つに納める「繰り出し位牌」があります。札位牌が複数ある場合は、古い位牌を繰り出し位牌にまとめて右側に置き、過去帳の左側に新しい位牌を置きます。

もし家に仏壇を置く場所が確保できないときは、次のようにしてもかまいません。
低い戸棚の上や本棚などのスペースを利用して本尊と三具足を配置するだけで、そこは仏壇となり、毎日のお参りの場所となります。

科学の時代に生きる現代人は仏壇の効用を「実証しろ」と言うでしょう。効用があるかないかは自分次第です。墓じまい、仏壇じまい、といって古代から脈々と受け継いできた「いのち」の拠り所を断絶する意味をしっかりと考えて、コンビニエンスな世の流行に惑わされることのないようにしたいものです、

しかし、こうしたことに向き合うことが社会人基礎力、さらにはライフスキル、ライフスタイル、ライフデザイン、ライフプラン、ライフシフトそしてライフステージ。全部繋いで、すべては自由で豊かなウェルビーイングなライフを実現する自己マスタリーを高める拠り所になります。親から子に伝えるとても重大な躾であり、こういうことが欠落していると子どもの不幸になります。どうするかで説明できない、あり方の問題なのです。

お遍路(真言宗)には「同行二人」という考え方があります。同じく仏教には「同事」という言葉があります。宗派によって言葉は違いますが同じ意味のこの言葉には、共に悲しみ苦しみを自分のことのよう、その人に一番いい方法を一緒に考えてくれてに考えることです。仏さまも同じ目線でいる。そして、いい智恵を自然に与えてくれるのです。

(5)礼拝を朝夕の習慣にする

おつとめは朝夕の一日二回行なうのが基本ですが、どちらか一回でもかまわないので毎日欠かさないようにしたいものまです。六種供養を調えてから合掌礼拝し、読経するのが真言宗の場合では原則です。六種供養とは、茶湯(お茶や水)、塗香(身心をきよめるためのお香)、華霊(礼拝者に向けて生けた生花)、焼香(線香や抹香の香り)、飲食(ご飯などて灯明(ロウソクの火)です。

おつとめ前に華瓶の水を取り替え、炊きたてのご飯やお茶などをそなえます。パン食の場合はパンでもかまいません。自分が食事をする前に仏壇に食事を誇んでも誰も食べません。れを尽くしても特になることはなく、手間を考えると特になることはありません。

それでも続けていると、仏壇の前で着替えることも足を向けて寝ることもできなくなります。ヒトが見ていない時も、身体が品性を守れと教えてくれるようになります。誰かが財布を落としたら、考えるまでもなく自然に届けるようになります。身体がお天道様に反応するのです。このお天道様が真理なのです。お天道様が真理になると、外的な他人の評価を気にせずに堂々と生きていけるようになります。ブッダやお大使様(弘法大使)が伝えたことはそういうことではないでしょうか。

塗香があれば少量を手にとり、身心を清めます。そしてロウソクを灯し、その火で線香をつけます。線香の本数は、三宝への帰依や三密行を表す表す意味で三本立てるのが習わしですが決まりではありません。三密行とは、①全身を使って合掌礼拝し、②口にお経や真言をとなえ、③心に仏様を念じるこよです。仏壇のお参りの先にお墓参りがあります。特に命日には欠かさないようにします。

時間と労力を消費しますが、礼をつくすことで、身体が馴染むほどに、立ち振る舞いも自然に美しくなります。お墓まいりの立つ位置、立ち姿も所作も日頃の仏壇との関わりで整えられていきます。清潔な布で石を拭き、水、花、蝋燭、線香を供えます。無理のない範囲で先人が喜びそうなものを供えてあげましょう。(宗派の決まりを確認して実行します)

何のためにもならないと思うから墓じまいを考えるのでしょう。遠方にある場合は頻度が少なくなるのは仕方がないにしても、見えない恩恵をいただいていることを深く考えましょう。嫁いだものの、仏壇やお墓にまったく無関心だったことで礼節を欠き、夫婦間の間に亀裂ができて離婚に至った話はよく耳にします。こんな時代だから大切にしたいですね。

やり方編は「般若の呼吸」からはじめます。

まとめ

ひたすら正しい習慣をつけるのが仏教です。それ以外のことをしない、させないのが仏教です。
「精進ー妨害=結果」
世間が作った価値観に振り回されず、妨害を取り除いたら、習慣は正しい道を歩みやすくします。
何が正しいのか。その基準は「刹那」です。
刹那減」という「不可避の事態」を受け入れやすく支援するのが「詫び・寂び」という文化です。

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