「だいじなものは目に見えないものだよ。心で見ないとね。」
フランスの作家、サン・テクジュベリが描いた童話『星の王子さま』に登場する「キツネ」の言葉は、この物語のもっとも重要な部分です。
こんにちは、ゲンキポリタンのNaoman-Minoruです。
私は毎日近くの稲荷神社にお参りに行き、きつねうどんを食べています。そばにしたらタヌキになるので、うどんしか食べられません。そうまでするのは、見える、見えないは、対象の問題ではなく、見る側の人の問題であることを忘れないようにしたいからです。
飼い慣らす。って、どういう意味?
「きみ、だれ?」と王子さまはいった。「とってもかわいいね・・・」
「おいら、キツネ。」とキツネはこたえた。
「ぼくと一緒にいっしょに遊ぼうよ。」と王子さまは提案した。
「ぼくは今、ひどく悲しいんだ・・・・」
「きみとおれは遊べないんだよ。」とキツネはいった。
「おれは、きみに飼い慣らされてないから。」
「あ、ごめん。」と王子さまはいった。
それから、少し考えて、尋ねた・・・・
「飼い慣らす。って、どういう意味?」
「きみはよそからここに来たんだろ」とキツネはいった。
「なにか探しているのか?」
「人間を」と王子さまは言った。
「そうなんだ」キツネはいう。
「ねえ、飼い慣らす。って、どういう意味?」
「みんなが忘れていることだけど」とキツネは言った。
「それは絆を作るってことさ・・・・」
「絆を作るって?」
「おいらにしてみりゃ、きみはほかのおとこの子10万人と、なんのかわりもない。
きみがいなきゃダメだってこともない。
きみだって、おいらがいなきゃダメだってことも、たぶんない。
きみにしてみりゃ、おいらはほかのキツネ10万匹のよく似たキツネのうちの1匹でしかない。
でも、きみがおいらを飼い慣らしたなら、おれときみは互いになくてはならない仲になる。きみはおれにとって互いになくてはならない仲になる。きみはおれにとって世界でたった一人の人になるんだ。おいらも、きみにとって、世界でたった1匹の・・・」
「わかってきたみたい。」と王子さまはいった。
その他大勢から1/100,000になる
キツネは、その他大勢から1/100,000になる方法を「飼い慣らす」という表現で伝えます。キツネが言いたかったのは、親しくなる意図を持つということです。偶然が重なって親しくなることもありますが、明確な意図があれば、さらに多くの人々と親しくなれます。
しかし、これは飼い慣らす側の視点です。
飼い慣らされる側になれば「あなたを全面的に受け入れます。」と思える信頼感が前提です。
ここで双方を繋ぐのが「慈悲」の心です。
慈悲とは「慈しみ憐れむ」。また「苦を除き楽を与える」ということです。
慈悲の心を持つとは弱者をいたわる気持ちのように思われがちですが、決してそうではありません。
弱い、強い、どうして判断できるのでしょう、慈悲の心は、見た目で判断しないのです。
『無分別智』の心の上に立って、相手が弱者であっても強者であっても、同じです。人を思いやったり優しい心遣いをしていくうちに少しずつ美しいいのちに染められていくものなので、無色透明、水のように、分け隔てしない思いやりの心で繋がることが慈悲なのです。
『無分別智』
人間は善悪・正邪の分別なしでは生きられないが、その分別によって人間は苦悩することになります。 そうした分別の本質を超えて、知られるものと知るものとの対立を超越した固執しない智慧の世界を「無分別智(分別を超えた智慧)」という
見えないものが見える胆力5つの特徴
見えないモノが見えるには本質を見抜く多面的に見る「知恵」とリスクを恐れない「胆力」が必要です。「胆力」は「たんりょく」と読みます。
胆力とは、予想外のことが起こっても動じたりしない気力のことです。「度胸」とよく似ていますが「胆力」には物事の本質を能動的にとらえる粘り強さがあります。これらが揃うところに胆力の深い意味があります。
うわべだけで判断する人には、本質まで掘り下げずに物事の表面的な部分だけで判断します。
物事をどのようにとらえるかという点で、胆力がある人と胆力がない人ではまったく異なります。
胆力がない人の場合、ポジティブであっても、受け身なのです。
胆力がある人は、ポジティブな点では同じように物事をとらえます。
自分にとって好ましくないようなネガティブな物事に対しても、「こういう点は素晴らしい」と多面的にとらえることができるので、受け身にならず、能動的に打開するように進みます。
- 優先順位を決めて行動する
- 相手と本音で向き合う
- 自分を信じているので「なるようになる」と思える
- 成功するまでやり続ける
- 困難なことにも物怖じせずに行動する
物事の表面的な部分だけをとらえていると、そのことに対して受け身になってしまい、翻弄されてしまいがちです。 胆力がある人は、誰と向き合っているときにも物怖じすることがありません。「嫌われたらどうしよう」とネガティブに考えて自分の本音を伝えないということもありません。しかし、本質をとらえることで、冷静に状況を把握して、適切な対応を取ることができます。あらゆる物事に対して、常に能動的に受け止めて対応することができる胆力があると物事に動じにくくなります。
残してきたバラのこと
「わかってきたみたい。」と王子さまは言った。
「1本の花がいてね・・・・・彼女はぼくを飼い慣らしたんだけど・・・・・」
「そういうこともあるさ」とキツネは言った。
「この地球の上にはなんだってあるんだから」
「ああ、これはこの地球の上の話じゃないんだ」と王子さまは言った。
キツネは不思議そうな顔をした。
「別の惑星?J
「そう」
キツネと王子は雑談、キツネは自分の考えに話を戻します。
「お願いだ。・・・・おれを飼い慣らしてくれ!」
「おれのは単調な暮らしだよ。おれはニワトリを狩る。人間がおれを狩る。
ニワトリはみんなよく似ている。人間もみんなよく似ている。
だからおれはちょっと退屈してるんだ。
でももしきみがおれを飼い慣らしてくれれば、おれの暮らしに日が当たるわけさ。
おれは他の誰とも違う足音を覚える。誰かの足音が聞こえたら、おれは急いで地面の下に潜る。
でもきみの足音はきっと音楽みたいにおれを穴から誘い出す。
あそこを見ろよ!あれは小麦畑だろ?
おれはパンは食べない。小麦なんかおれには無用だ。
小麦畑はおれに何も訴えない。これって悲しいことだ!でもきみは金の色の髪をしている。
きみがおれを飼い慣らしたらどんなに素晴らしいだろう。
小麦は金色だから、おれは小麦を見るときみを思い出すようになる。
小麦畑を渡る風を聞くのが好きになる・・・・」
キツネは黙って、長いあいだ王子さまを見ていた。
「お願いだ。・・・・おれを飼い慣らしてくれ!」
「そうしたいと思うけど」と王子さまは言った。
「あんまり時聞がないんだ。友だちをたくさん見つけて、いろいろ学ばないといけないから」
「飼い慣らしたことしか学べないんだよ」とキツネは言った。
「人間にはものを学ぶ時間なんかない。人間はできあがったものを店で買うだけだ。
でも、友だちを売っている店なんかどこにもないから、だから人間にはもう友だちはいない。
友だちが欲しかったら、おれを飼い慣らしてくれ! J
「何をすればいいの?」 と王子さまは言った。
「なによりも忍耐がいるね」とキツネは言った。
「最初は草の中で、こんな風に、おたがい、ちょっと離れて坐る。おれはきみを目の隅で見るようにして、きみの方も何も言わない。言葉は誤解のもとだからね。でも、毎日少しずつ近くに坐るようにしていけば・・・・・・」
翌日、王子さまはそこへ戻った。
「同じ時間に戻ってきた方がいいな」とキツネは言った。
「例えばさ、午後の4 時にきみが来るとすると、午後の3 時にはおれはもう嬉しくなる。時間がたつにつれて、おれはいよいよ嬉しくなる。4 時になったら、もう気もそぞろだよ。幸福っていうのがどんなことかわかる!でもきみの来る時聞がわかつてないと、何時に心の準備をすればいいかわからない・・…・習慣にすることが大事なのさ」
「習慣って何?J と王子さまは聞いた。
「これもまたしばしば忘れられるものだ」とキツネが答えた。
「それは、ある1 日を他の日々と区別し、ある時聞を他の時間と区別する。例えば、おれを狩る猟師たちには1 つの習慣がある。木曜日に村の娘たちとダンスをするのさ。だから、木曜日はすばらしい日だ!ずっとブドウ畑のあたりまででも散歩に行ける。でも、もし猟師たちのダンスの日が決まっていなかったら、毎日はみんな同じになってしまって、おれは休日気分を味わえない」
こうして、王子さまはキツネを飼い慣らした。
そして、出発のときが近づくとキツネは言った
「ああ!……きっとおれは泣くよ」
「それはきみのせいさ」と王子さまは言った。
「ぼくはきみが困るようなことはしたくなかったのに、きみが飼い慣らしてくれって言ったから……」
「そのとおり」とキツネは言った。
「でも、やっぱりきみは泣くんだ!J
「そのとおり」とキツネは言った。
「じゃあ、きみは損をしたんだ! J
「おれは小麦畑の色の分だけ得をしたよ」とキツネは言った。
キツネの秘密の言葉
それから、こう言い足した「行って、もう1 度あの庭園のパラたちを見てみな。きみのパラは世界に1 つしかないってことがわかるはずだ。そしたら戻ってきておれにさよならを言ってくれ。お別れに1つ秘密をあげるから」
王子さまはもう1 度庭園のバラを見に行った
「きみたちはぼくのバラとはぜんぜん似てないよ。きみたちはまだ何でもなし、」と王子さまは言った。
「誰もきみたちを飼い慣らしていないし、きみたちだって誰も飼い慣らしていないからね。
きみたちは以前のキツネに似ている。前は10万匹のキツネたちのどれとも違わないただのキツネだった。でもぼくたちは友だちになったし、今では彼は世界でただ1 匹のキツネだ」
パラはみな当惑していた。
「きみたちはきれいさ。でも空っぽだよ」と彼は続けた。
「誰もきみたちのためには死ねない。もちろん、通りすがりの人はぼくのあのパラを見て、きみたちと同じだと考えるだろう。でも、あれはきみたちをぜんぶ合わせたよりもっと大事だ。
なぜって、ぼくが水をやったのは他ならぬあの花だから。
ぼくがガラスの鉢をかぶせてやったのはあの花だから。
ついたてを立ててやったのはあの花だから。
毛虫を退治してやったのはあの花だから(チョウチョになる分を2 、3 匹残してね〉。
愚痴を言ったり、自慢したり、黙っちゃったりするのを聞いてやったのは、あの花だから。なぜって、あれがぼくの花だから」
彼はキツネのところに戻った。
「さようなら」と彼は言った。
「さようなら」とキツネは言った。
「じゃ秘密を言うよ。簡単なことなんだ・・・・ものは心で見る。肝心なことは目では見えない」
だいじなものは目に見えないものだよ。心で見ないとね。
キツネのあり方は、自然に真理を突いていました。
そして『星の王子さま』はいつまでも読み継がれる原因になっている重要な言葉が、別れの場面で語られます。
「ものは心で見る。肝心なことは目では見えない。きみがバラのために費やした時間の分だけ、バラはきみにとって大事なんだ。人間たちはこういう真理を忘れている。でも、きみは忘れてはいけない。飼いならしたものには、いつだって、きみは責任がある。」
その責任を負うことが存在理由であり、責任を果たすことが存在証明なのです。
私たちは時がない方に向かって進み、時間を作り出します。
作り出した時間にこころをつける営みこそが生きることなのです。
稲穂がどんどん成長していって実が入ってくると頭を垂れるようになります。
生み出した時間にこころをつけて過去に送ることが生きるということであり、時は過去に移動し続けるものなのです。
「おれは小麦畑の色の分だけ得をしたよ」の意味
「ものは心で見る。肝心なことは目では見えない。きみがバラのために費やした時間の分だけ、バラはきみにとって大事なんだ。人間たちはこういう真理を忘れている。でも、きみは忘れてはいけない。飼いならしたものには、いつだって、きみは責任がある。」
この言葉の前に、キツネは「ああ!……きっとおれは泣くよ」と言います。
王子は「きみが飼いならせ」と言ったからだ。といいます。
その後に、この物語の真髄というべきセリフが飛び出します。
以下のやりとりです。
「ああ!……きっとおれは泣くよ」
「それはきみのせいさ」と王子さまは言った。
「ぼくはきみが困るようなことはしたくなかったのに、きみが飼い慣らしてくれって言ったから……」
「そのとおり」とキツネは言った。
「でも、やっぱりきみは泣くんだ!J
「そのとおり」とキツネは言った。
「じゃあ、きみは損をしたんだ! J
「おれは小麦畑の色の分だけ得をしたよ」とキツネは言った。
つまりキツネが言いたい、王子さまに伝えたかったのは・・・・
小麦に興味のない小麦畑に。金色に輝く小麦を見ただけで、ぼくは君を思い出すようになる。麦畑をわたっていく風の音まで、好きになるという意味です。
随処に主となれば立処皆な真なり
「ものは心で見る。肝心なことは目では見えない」
ねんねした間になにがある。
お床の上に降り積り、
お目々さませば、ふと消える。誰もみたものないけれど、
誰がうそだといいましょう。
まばたきするまに何がある。
白い天馬が翅のべて、
白羽の矢よりもまだ早く、
青いお空をすぎてゆく。
誰もみたものないけれど、
誰がうそだといえましょう。
( 「見えないもの」 金子みすゞ)
あるはずだと思いながらも、自分は頭がおかしくないのか?みんなが迷うことです。
しかし、みすゞさんは、
誰もみたものないけれど、
誰がうそだといえましょう。
と、言い切ります。お釈迦さまが最後に説いた言葉「自灯明、法灯明」と重なります。
何代も受け継がれたからといって、その伝統を信じるな。
たくさんの人の間で語られ、噂になったからといって、それを信じるな。
あなたが所属する宗教の聖典に書かれているからといって、それを信じるな。
ただ貴方の先生や先輩の権威だからといって、それを信じるな。
しかし、観察と分析を行なった上で道理に合っていて、すべての者の利益になると貴方がわかったならば、それを信じなさい。
そういう人が多い時代に、「他人の基準で生きるな」とマイスタンダードこそ生きることに他ならない。それでいて他者に迷惑をかけないように、勉強しろと仏陀は遺言にしたのです。
随処に主となれば立処皆な真なり(ずいしょにしゅとなればりっしょみなしんなり)
「どこに居ようとも自分自身を見失わなければ、いつどこでもそこに真理が存在する」という意味の禅語です。
まとめ
キツネが王子に教えたかったのは、「だいじなものは目に見えないものだよ。心で見ないとね。」・・・物事の見方の習慣を通して、「随処に主となれば立処皆な真なり」つまり「どこに居ようとも自分自身を見失わなければ、いつどこでもそこに真理が存在する」という禅の教えに通じるあり方です。あり方を支えるのはブッダの遺言と言うべき「自灯明・法灯明」です。」